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No52 |
命を見つめる
(3/7)
旭山動物園園長、ボルネオトラストジャパン理事
犬も犬種のブームがあるように、動物園でも結構動物のブームがあるんです。日本の動物園は、江戸時代までないんですね。明治に入って、欧米の文化が入ってきたときに動物園ができて、共に暮らすというよりも、囲って見せるという欧米型の感覚にどんどん変わっていったのだと思います。その頃から、客寄せパンダに始まり、珍しい動物、見たことのない動物を次々に持ってきて、沢山の人に来てもらうという見せ方になってきて、うちはそういうところから取り残された動物園で、施設もぼろぼろだったんです。そのような色々な動物ブームの中に巻き込まれていっても、そういう動物もいないという状態でした。
そのうちアザラシ館というのができて、全国区になっていくんですけれども、「ラッコいないの? ラッコいないの?」と、二十数年前、ラッコの大ブームがあったときに言われました。人間は社会をつくるという部分でどうしてもそういう面が出るんですけど、相対的に物を見ますよね。例えばラッコのブームになると、ラッコがすごい生き物になるんですよ。「ラッコがすごい」と言うと、対として「すごくないもの」が必ず生まれるんですね。例えばお金持ちがいたら、貧乏な人が、勉強ができる人がいたら、勉強ができない人がいる。常に相対的な価値観で見ています。ラッコすごいよ、ラッコすごいよとなると、感覚の中で必ずすごくない生き物が出てくるんですね。それが当時はアザラシだったんです。うちのアザラシの池のところに来ると、なぜかお客さんは「ラッコいないの?」とアザラシを見て聞くんです。「いませんね」みたいな話になっていたんですけれども、それがすごい悔しかったです。
そんなことで、いつかアザラシだってすごいよと見てもらいたいということで、アザラシ館ができて、ただ自分たちの中ではそんなに何か特別のことをしているわけじゃなくて、アザラシらしくという、自分たちがすばらしいと思うものに共感してほしいと。ウケるというのではなくて、共感してほしいと思ってつくってきたのです。この施設ができて、自分たちも予想しないような人が沢山来るようになってきました。水族館の人たちも沢山来ましたがラッコすごいよと見せていたので、当然アザラシなんてと思っていたわけです。でも、百数十年の日本の動物園、水族館の歴史の中で、ショーとか芸をさせて拍手が起きたり、わーっと歓声が上がることはあったけれども、何もしないあたり前の姿、ありのままの姿の中でその人たちがわーっと歓声を上げたというのは、多分この施設が初めてだと思います。しかも、それがただのアザラシで起きたわけです。そんなことで、色々な意味で色々なものを見直すというか、本当に根本的な価値観を変えていく原点になった施設になりました。
実はペンギン館というのをその前につくっていて、地元では結構話題になっていました。昔動物園は子どものために行く場所だったんですけれども、これができて結構大人同士で来られ始めたのです。何十年ぶりに動物園に来たというおじいちゃん、おばあちゃんとかも結構来られて。うちは、よちよちしたペンギンというあのイメージよりも、最初に水中のほうを見に来るという仕組みになっているんです。おじいちゃん、おばあちゃんたちが入ってきて、目の前に泳いでいるのを見ながらペンギンを探していたんですよ。「ペンギンどこにいるんだ」みたいな話をしていて、おじいちゃんが「ところで目の前に何か泳いでるんだけど、これ何だ」、おばあちゃんが「これ、きっとマグロの一種かなんかだよ」。これ本当なんですよ。
僕も、人間って何か動物の一種位に見て観察するんですけど、人って結構価値観を決めます。だんだんと知らない間に、自分の中でこの人はこういう人とか、色々なものの価値というのをつけていきます。動物は、かわいらしいところに価値を見つけて、そこをずっと見続けます。そうすると全体が見えない。ペンギンが何を食べている生き物なのか、どこで生活しているのかとか、全然考えなくなるんです。可愛いところだけ、ああ可愛い、可愛いになっていって。うちは別にペンギン館も特別なことをしていないです。ただ泳いでいるだけです。空を飛ぶのと同じ理屈で水中を飛んでいる。その姿を見てもらっただけで大人同士の人が来るようになったというのは、きっと何かすごく自分で思っていたものと本質的なところで何か気づきがあったり発見があったりするから、沢山の大人の方が来る動物園になったのかななんて思ったりします。
これから冬になりますが、ペンギンの散歩はすっかり冬の定番になりました。結構うちの動物園へ来られた方に、「ペンギンの パレード、何時からやってるの」と聞かれるのですが、「パレードはやっていないんですけど」、「散歩ならやってますよ」と。犬を飼われていたら、別に散歩の訓練しないですよね。犬は外へ出て歩きたい動物、ペンギンも外を歩きたい動物。だから出してあげているだけで、毎日ゴチゴチと頭をぶつけながら出て行きます。みんな一律ではないです。こういう何か間の悪いやつって、やっぱり群れの中には必ずいて、待ってくれみたいに行くんですけど、ただこれがロープも張らずにやるので、すごいパレードとか行進みたいなイメージがついて歩くんです。よちよちよちよち行くんですけれども、ペンギンの散歩はお客さんに並んでもらうと、ペンギンは空いているのはここしかないじゃないですか。だから、何かそこを淡々と歩いていく、それがペンギンの散歩なんです。ただペンギンは、あたり前ですけど、人に可愛いと思われたくてこんなよちよちした姿になったわけじゃないですね。たまたま僕らはそこにかわいらしさを見つけるんですが、ペンギンは水中を飛ぶ鳥になりました。空を飛ぶのはやめました。でも、卵を産んでひなを育てるのは陸上でしかできない。だから、陸上に最低限の能力を残したんです。人間でもつかまえられるということは、自分たちを陸上で食べる動物がいないところでずっと暮らしてきた結果の姿なんです。そこにたまたまかわいさを見つけている。だから、可愛いから入ってしまうと、何を大切にしなきゃならないのか、何を守らなきゃいけないのかということが見えなくなるような気がします。
うちは寒さと雪がテーマです。寒さと雪の中でこういうふうに本当に美しい姿で歩くペンギンを、頭の知識ではなくて心に残してほしいと思っています。例えば地球が暖かくなりますよ、気候が変わってきましたよといったときに、そのことが何か心で感じられる。やっぱり心で感じないと、多分行動には移らないと思うんです。頭の知識は誰かがやればいいでしょうという理屈の世界で、心が痛むとやっぱり人ごとではなくなります。自分たちの暮らしをもう一回見つめなければとか、そういうところにつながってほしい なと思ってやっています。ただうちで話題になると、沢山の人が来るんだなということで、本州なんかでもペンギンを飼育しているところは、冬期限定みたいなので外へ出すことが多くなりました。でも、なぜか音楽が鳴っていたり、着ぐるみを着た人が先導していたり、手拍子していたりとかなるんですよ。一番ひどいところになると、ペンギンにちょうネクタイみたいな話になるわけです。それって何かというと、だから見に来てねということですよね。要するに道具ですね。自分の動物園、水族館のための道具になってしまう。色々なところでそういうことが多いような気がします。人の経済という部分で、お金を使ってもらうという部分で、本当は誰のためにやっているのかということを、もっともっと真剣に見つめられればいいなと思ったりしています。
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