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世界最高峰を目指すための「超健康法」
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私は北海道大学獣医学部出身ですが、入学した時の同級生に渡辺淳一がおりました。彼は札幌医大に行きましたけれども同期だったんです。彼は頭もいいし、一生懸命勉強をしてお医者さんになりました。私はスキーを滑って転んで、大学でも試験をよく滑りました。2年生の時、学校をさぼって大雪山で春スキーをやっていました。6月、もうそろそろ学校へ帰らなきゃ単位が危ないというので慌てて帰ってきましたら、もう皆で大騒ぎしているんです。ヒラリーとテンジンの二人がエベレストに登った、とうとう地球上で一番高い所に人間が登れたと山岳部の連中が大騒ぎでした。その時、私はふと思ったんです。「将来、俺はいつかエベレストへ登る」。そういうチャンスがあるのではないか、と遠い遠い夢をみました。それからどういうわけか、本当にぴったり50年たって、70歳を超えてエベレストに登れたわけです。人生はいろいろな偶然が重なるものです。そのころは、まさか70歳まで生きるとは考えられませんでした。40歳までがいいところだと思っていました。
パラシュートをつけてエベレストを滑降し、転んで落っこちた時は99.99%助からないと思いました。アメリカ航空宇宙局NASAにもスキーや登山の好きな専門家がおりますけれど、彼らは当時人工衛星を回収するのにハワイ沖へパラシュートをつけて落とし、それを拾いに行く、そんな時代でありました。このパラシュートを開く高度は、NASAの実験の結果、6,000m以下でないといけないということでした。要するに地球上は6,000m、7,000m、8,000mくらいになるとジェットストリームがひどいし、乱気流が起きてどこにもって行かれるか分からないので、高度6,000m以下になるとパラシュートが自動的に開いて落ちてくるようになっていました。これを教えてくれれば良かったんですけども、全然そんなことは教えてくれない。私たちは大真面目に、富士山の直滑降がパラシュートでうまくいったと喜んでいました。
この富士山の直滑降、パラシュートブレーキの報道に取り組んでくれたのは、北海道ではHBC、東京はTBSで、この時の担当ディレクターが堂本明子さん、現千葉県知事です。「雄ちゃん、私、今度千葉県の知事選挙に出るから応援に来て」なんて電話があって、千葉の駅前で二人でわいわいやり、どうせ滑って元々だからのんきに遊びましょう、なんていっていたのですが当選しました。堂本さんは日本女子大学の山岳部の山女ばりばりです。そんなあれやこれやがあって、エベレストの計画を立ててみようと思いました。
60の坂、お腹突き出し肩で息/あらゆる生活習慣病が揃い踏み
親父が99歳でモンブランを滑って、それから長野オリンピック、その前はノルウェーのリレハンメル。この時も伊藤義郎会長に随分お世話になりました。次男の豪太がモーグルで一生懸命やりましたが、ワールドカップ、世界選手権とまだ頑張っています。親父が頑張って、息子が頑張っているのに、私はこの間に挟まって60の坂をふうふういいながらうろうろしていました。もういいじゃないか、やるだけのことはやった、世界の7つの大陸を全部滑って転んだ、もう引退してのんびりしよう、と思っておりました。スキー仲間との打ち上げでビール園に行けば飲み放題、食べ放題。ジンギスカンなんか1sも食べる。そんなことを繰り返しているうちに、もう運動することが殆どなくなり、朝の散歩もジョギングも面倒臭い。気がついたら、私は身長が165cmしかないんですが、胴回りが1mをはるかに超え、体重86s、お腹ぽっこり。われながら情けないと、たまにウオーキングなんかしようと5、6km歩いて帰ってくると股擦れが起きている。これでいいわけがないと思いました。
お医者さんからは逃げ回っていましたが、ある時、非常に運が悪いことにうっかり掴まってしまいました。家内が膝を痛めて、札樽病院の多田先生という先輩を訪ねましたところ、「三浦君、お前もお腹を出して肩で息をしている。検査をしてあげる」と血液、尿は勿論、心臓もおかしいから24時間ホルターをつけなさいということになりました。2週間ほどして電話があり「すぐ院長室に来なさい」。一覧表には赤字がずらり、家計の赤字どころではありません。高脂血症に糖尿病、血圧も200近くあり立派な高血圧。あらゆる生活習慣病が揃い、特に腎臓の調子がおかしい。これだったら2年か3年の内に人工透析だ、と脅かされましたが、自覚症状もありました。随分前から、明け方に肩や胸の辺りが気持ち悪くなり、いつの間にか心臓がきゅっと締まる。狭心症の始まりです。それが不整脈と相伴って、この先あまり生きられないな、60を超えればもういいなとも思ってはおりましたが、ただ、ふと考えると、人生でまだやりたいことがいくつもあり、中でも、エベレストのてっぺんにだけは行きたい、との思いが強くありました。1970年5月11日、植村直己さんが登った5日前、私はパラシュートをつけて滑降。滑って転んだ。あの時、1日あったら頂上に行けたのに…。
NHK−BSで「世界わが心の旅」という番組がありました。音楽家の小澤征爾さんが桐朋音大を卒業して船でヨーロッパへ渡り、おんぼろスクーターで背中にギターを背負って音楽の武者修行をした。その時に出会った恩師や下宿のおばさんたち、青春時代のそんな人たちを訪ねて歩くという番組です。64歳の私にも話があり、できたらエベレストのベースキャンプまで行ってみたい、シェルパたちのお墓参りもしたいし、生き残っているシェルパたちにも会いたいと希望し、出かけました。案の定、ナムチェバザール辺りで高山病になり、ベースキャンプに着いた時にはふらふらで、もう限界でした。岩の上に腰を下ろし、アイゼンをガリガリ響かせながら若い登山家たちやシェルパたちが頂上の方から下りて来るのを見た途端、俺にはこの世界はもう無理なんだ、こんなに歳をとってこんなところでもう動けなくなっている、と諦めの気持ちに襲われました。
一旦エベレストを諦め、諦めの反動が飲み放題、食べ放題になり、そのつけが全身に回ってしまったのです。考え直しました。親父も息子も頑張っている。それなのに、俺の夢は何だったんだろう。このままデブで、心筋梗塞か脳梗塞で死んでしまうのなら、なんとつまらない人生だ。だったら、できるかできないかは分からないけれど、これから5年かけてエベレストの頂上に登ってみよう。それを目標にしてトレーニング、山登りを再開してみようと思いました。