![]() |
No60 |
レジェンドジャンパー葛西紀明 努力と健康管理で掴んだ銀メダル
(7/8)

葛西紀明氏
土屋ホームスキー部監督兼選手
![]()
そして、個人戦の後には団体戦がありました。1番手の清水礼留飛は、新潟県出身で、1回目のオリンピック出場です。2番手の竹内択は、2回目のオリンピック出場です。3番手の伊東大貴は、3回目の出場で、僕と同じ下川町出身です。4番手が僕ということで選考されました。
選考会も、5名の選手がいて、オリンピックは4人しか出られません。もう一人は渡瀬雄太という選手でした。コーチも選考会でぎりぎりまで迷っていたと思います。僕が長野で味わった気持ちを彼も味わったと思います。出場できないことは非常に悔しかったと思います。僕が銀メダルをとったときも、渡瀬雄太の部屋を通り過ぎたところに私の部屋があるのですが、立ち止まって、渡瀬雄太の部屋に寄って、「雄太、悔しいだろう、俺も長野で同じ気持ちをした、でも、諦めずに頑張ればこうしてメダルをとれる」ということを伝えて、メダルを触らせてあげました。そうすると、渡瀬雄太は、「わかりました、僕も諦めずに頑張ります」と言ってくれました。
そのように、非常にシビアな中、この4人のメンバーはみんな万全な状況ではなかったです。清水礼留飛は、オリンピック前の年末年始のワールドカップを途中で外されました。オリンピックメンバーを選ぶ最大のポイントは、年末年始のワールドカップです。清水は出られないのではと不安に思い日本から毎日のようにメールが来て、「葛西さん、僕はオリンピックに出られますか」、僕が「大丈夫だ、おまえはちゃんとポイントをとっているし、いい調子まで仕上げれば大丈夫だ」と励ましました。
2番手の竹内択は、年末年始のワールドカップのときに急に体調を崩しました。40度以上の高熱を出して、それでもワールドカップに出ると言っていました。今、体調を崩したらまずいから出るなと僕が引きとめて、日本に帰って検査入院をしたところ、120万人に一人の難病のチャーグ・ストラウス症候群という免疫力の低下する血液の病気でした。彼は入院により一時期は「オリンピックを諦めた」と言っていましたがそれでも、強い薬を服用しながら、オリンピックメンバーに選ばれ、団体メンバーに選ばれました。
3番手の伊東大貴ですが、オリンピック直前のドイツのワールドカップで膝を痛めまして、それをずっと引きずっていました。ノーマルヒルの試合を辞退して、ラージヒルの個人戦、団体戦にかけていました。痛い膝を押して、団体戦のメンバーに選ばれ、みんな万全ではない中で挑んだ団体戦でした。
そんな後輩たちのために絶対にメダルをとろうと団結して、一丸となって戦った試合です。みんな、1本目も2本目もいいジャンプをしていました。2本目の最後のアンカーの人だけは順番が変わります。それが2006年ぐらいからのルールですが、それ以降は、日本チームはワールドカップポイントの総合順でなっていき、日本チームは8番でした。その後ろがスロベニア、ポーランド、ドイツ、オーストリアと続いているのですが、そういう順番で3番手まで飛びます。最後だけ、成績の悪い国の順番に1番、2番、3番と飛んでいきます。もちろん、一番最後はドイツで、その前がオーストリア、その前が日本です。最後の3人はメダル圏内です。あからさまにプレッシャーがかかってきます。
そして、僕の順番が来ました。みんないいジャンプをして、僕につないでくれました。今は銅メダルの位置だなと思って、プレッシャーもかかっています。いろいろなことが頭の中をぱっとよぎります。もちろん、20年前の原田さんですね(笑)。その4年後に団体戦で金メダルをとっちゃったしっかり者の原田さんがよぎるのです。いやいや、だめだめ、一番大事なチャンス、もう一生に一度しかないこのチャンスを逃すわけにはいかない。個人戦なら、失敗しても、自分のせいですが、団体戦になると失敗できないのです。みんなに迷惑をかけたというすごいプレッシャーと嫌な気持ちが来るということを何度も経験しています。なので、絶対に失敗できません。失敗しないと思っていました。自分の体が勝手に動いてくれるのだろうと思っていました。その結果、1本目も2本目も134メートルの大ジャンプをすることができて、長野オリンピック以来、16年ぶりに団体戦の銅メダルというメダルをとることができました。
自分の中では、個人の銀メダルよりもこの銅メダルのほうが、涙が出るくらいうれしかったです。こうしてみんなで力を合わせて、万全ではないなかで戦ってきた仲間たちのためにとらせてあげたいと思っていたメダルだったので、本当に泣けるメダルでした。
![]() |
![]() |

