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No60 |
レジェンドジャンパー葛西紀明 努力と健康管理で掴んだ銀メダル
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葛西紀明氏
土屋ホームスキー部監督兼選手
その後、1994年の11月、またリレハンメルで日本チームが合宿をしていました。そのときに、飛んだ瞬間に空中で態勢を崩して転倒してしまい左の鎖骨を骨折しました。これが僕にとって初めての大けがでした。日本に帰ってすぐに手術をして、アルミのピンを入れて固定しました。年が明けて、1995年の1月、骨もくっついたので、整形外科の先生から、「もう飛んでもいいよ、ピンはシーズンが終わった春に抜くからずっと入れっ放しで大丈夫」と言われました。それでピンを入れたまま1月7日の雪印杯に出て、1月11日練習のため大倉山に行きました。
そのときは恐怖心はなかったのですが、何か嫌な予感がしました。すると案の定、リレハンメルと同じ転び方をしました。グルンと回って、左の肩からぼんと落ちました。手術をしたアルミのピンがV字に曲がって、同じように骨折しました。さすがに2回目に復帰したときは恐怖心がありました。ずっといろいろな試合を戦ってきて、条件が悪いときには、体が勝手にびびったジャンプをしちゃうんですね。自分では行こうとするのですが、恐怖心があって、全然いいジャンプができなくて、そんな状態が10年続きました。
そんなスランプの中、98年の長野オリンピックに行きました。妹の病気、僕のけがなどがあり、母は大丈夫かなと心配して、もう一度手紙を書いてくれました。この手紙も紹介したいと思います。
「紀明へ。突然の手紙です。前から書こうと思っていたのですが、妹の入院、休みは面会に行くとかで忙しく、紀明が外国に行く前にとペンをとりました。
長野の大会では、久しぶりの笑顔が見られましたね。最初から出足がよく、名寄、大倉と断トツかと思えば、ワールドカップではガックリ、なんか今の生活そのものが出ているように思います。この1年、紀明にとって最悪、けが、妹は再び入院、そんな中、どん底からはい上がってきた息子を頼もしく思っています。
これからもいろいろなことがあると思います。たとえどんなことがあったとしても、あんたは強い人間だから負けるようなことはないと信じています。妹もまた、今まで経験したことのない無菌室に入ります。ほんの少しの雑菌でも命取りです。そのため、歯の治療や、毎日のように検査をしています。二、三日前も骨髄から血液をとりました。不安の中、一生懸命頑張っています。元気になったら車に乗りたい、したいことが山ほどあると言います。同じ兄弟で一人は世界へ、一人は生きることの夢と希望をいっぱい持って生きています。そんな子どもたちを誇りに思います。
お母さんは偉そうなことは言えませんが、今、一生懸命生きていたいのです。二度とない人生だから。子どもたちを思う気持ちは今までもこれからも変わることはありません。お母さんの命だから。今言えるのはそれだけです。
外国へ行っても、精いっぱい頑張り、体には気をつけて。春まで会えないかもしれませんね。元気で。じゃあ。
追伸 一生に一度、縁があってめぐり合えた人を大切にしてください」。
こういう手紙をくれました。母は、98年の長野オリンピックの前の年の97年の春に、火事に遭い、全身やけどを負いました。気管も肺も全部やけどをして、何とか一命は取りとめたものの非常につらい闘病生活の11カ月目に肝臓にばい菌が入って、脳にまで回ってしまったため、残念ながら亡くなってしまいました。妹のため、そして、母のために絶対に長野オリンピックで金メダルをとりたいと思いました。
僕のジャンプ人生の中で自国開催のオリンピックはこの一度だけだという強い思いを持って挑んだのですが、ノーマルヒルに出場して7位入賞に留まり、個人戦、ラージヒル、団体戦のメンバーには入れませんでした。最後の最後まで選考会はもつれましたが、チームは船木、原田さん、岡部さん、斉藤さんに決まりました。
国民の皆さんから応援していただき、本当に感動したオリンピックだったと思います。しかし僕は、出場選手とライバルであり、僕が抜けたオリンピックと思っていたので、正直に言うと、金メダルをとるな、落ちろという気持ちで見ていました。今思えば恥ずかしいことですが、それぐらい強い気持ちがないとだめではないかと思います。そして、このオリンピックの悔しい気持ちがあったからこそ、ここまでモチベーションを保ち続けてこられたのだと思います。そして、この最高のライバルがいたからこそ、僕は本当に強くなれたのだと思っています。
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