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講演  No60

レジェンドジャンパー葛西紀明 努力と健康管理で掴んだ銀メダル

(2/8)


鈴木 章氏

葛西紀明氏
土屋ホームスキー部監督兼選手



 ただ、世界の壁は厚く、当時は、ドイツのバイスフロクや、フィンランドのニッカネンという選手がメダルをとっていましたが、僕はラージヒルに出場して、みんな115メートルぐらい飛んでいるところ、74メートルと、全然飛べませんでした。うわー、世界の壁ってこんなに厚いのかと俄然やる気になり、高校2年生のときには、ワールドカップで7位に3回入賞することができ、少しずつ世界のレベルに近づいていきました。
 ただ、高校3年生のときに、初めてのスランプに陥りました。自分で何を考えても頭の中が真っ白で、コーチがアドバイスをしてくれても右から左で、全然飛べないときが1年ぐらい続きました。
 そんなスランプのときに母が1通の手紙をくれました。「今、紀明にとって経験するつらい時期だと思います。それも人生なのです。このつらいときに少しでも人の気持ちをわかってやれる、今まで以上に優しく強くなってくれることをお母さんは願っています。どん底からはい上がってくる我が子をお母さんは楽しみに待っています。試合では無理しないで元気な姿だけを見せてください」。
 こんな短い手紙だったのですが、母の手紙や支えのおかげで、何とか1年ぐらいかかったスランプから抜け出して、焦りも迷いもなくなりました。
 高校を卒業して、地崎工業という建築土木の会社に入社しました。地崎工業には、当時、秋元正博さんがいまして、僕が中学校のときに出会ったのですが、そのときに、秋元さんが、すごい中学生がいるということを言ってくれました。多分、秋元さんが地崎工業に言って僕を引っ張ってくれたのだと思います。
 入社してすぐの1992年に、僕の初めてのオリンピックがやってきました。フランスで行われたアルベールビルオリンピックに行く1カ月前に、僕は札幌のワールドカップで6位に入賞し、これはメダルをとれるのではないかと意気込んでいました。そのころ、V字スタイルが主流になり始めた年で、僕一人がスキーをそろえるクラシカルスタイルで飛んでいました。原田さん、須田さん、上原子さんという選手が夏からV字に取り組んでいて、みんなV字をマスターしていました。
 ワールドカップが終わって、すぐに当時のスキー部長から、「葛西、おまえ、V字に変えろ、V字じゃなきゃ世界で戦っていけねえぞ」と言われましたが、「僕は無理です。僕はこのクラシカルスタイルでいきます」と言いました。僕はすごく頑固だったのでそう言いましたが、そのスキー部長もなかなかの頑固者で、こう返してきました。「おまえがV字に変えないならオリンピックに連れて行かねえぞ」と言われましたので、泣く泣く承諾して、次の日からV字に取り組みました。しかし取り組んだのが、オリンピックの1カ月前です。今まで目の前にあったスキーが急にぱっとなくなって雪景色で真っ白です。すごく不安で、足を開くのに勇気も要ります。僕が33年間のスキー人生の中で一番怖い思いをしたのが、V字に変更したときでした。
 2週間たってもV字ができず、すごく焦りもあったのですが、何とか金具を調整したりして、あとはもう気持ちだけだと思っていました。当時、大倉山でクラシカルスタイルのときは飛んでも100メートルから110メートルだったのですが、ここは勇気を出して開くしかないということで、飛ぶ瞬間のテイクオフで開けという感じでばんとV字に開くと、急にパラシュートをつけたかのように、ぼんと上に上がったのですね。これだ!と初めてV字のすごさを感じました。これじゃなきゃオリンピックでメダルはとれないと思い、何本かできたりできなかったりという状態でオリンピックに入っていきました。

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