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レジェンドジャンパー葛西紀明 努力と健康管理で掴んだ銀メダル
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葛西紀明氏
土屋ホームスキー部監督兼選手
ただいまご紹介いただきました株式会社土屋ホームスキー部監督兼選手、そして、このメダルのおかげでこの春に部長に昇進しました葛西紀明です。
今回、ソチオリンピックで二つのメダルをとることができ、そして、皆様にお見せすることができて、本当にうれしく思っています。このメダルは、非常に重くて、一つ500グラムぐらいあります。これをかけたままお話をしますと肩が凝ってしまいますので、ちょっと外させていただきます。
僕は、北海道の下川町で生まれました。夏は暑く、冬は寒いところで、冬にはマイナス30度を超えて40度近くになるときもある、すごい極寒の地ですが、そこで、父、母、姉、妹という5人家族の中で育ちました。
下川町で一番有名なのがジャンプ選手で、人口が3,500人の町からオリンピック選手がなんと6人も出ています。1人目は嶋宏大さん、僕の二つ上の先輩の岡部孝信さん、そして僕です。後輩には、オリンピックの団体でメダルを一緒にとった伊東大貴、そして伊藤謙司郎です。もう1人は、女性ジャンパーの伊藤有希ちゃんです。
下川町でジャンプと出会ったきっかけですが、僕は、小さいころは体が弱く、体力をつけようと夏はマラソン、冬はクロスカントリーを始めました。下川町にはジャンプ台が4台あり、小さいジャンプ台から5メートル級、20メートル級、30メートル級、50メートル級とありまして、友達に誘われてこの5メートル級から飛び始めました。初めは怖かったのですが、飛んでいるうちに、友達よりも飛距離を出して面白くなり、ジャンプにはまってしまいました。ただ、親に言ったら、大反対しました。危ない、そして、お金がかかるということでした。
あるとき、町民スキー大会に親に内緒で出まして、2位になって銀メダルをもらったのです。そこで、ジャンプ少年団のコーチがうちの親を説得してくれました。「ただ、うちにはお金がないぞ。」「いや、大丈夫、たくさん先輩たちがいるので、お下がりがあるから。」と、僕は小学校、中学生の途中まで二つ上の先輩の岡部さんからずっとお下がりをもらっていました。
小学校、中学校とすばらしい先輩がいたので、すぐにジャンプがうまくなり、小学校、中学校とも負けなしでした。
そして、中学3年生のときに、宮様スキー大会が札幌で行われました。この大会は、中学生は出てはいけないというルールが昔はありました。それで「葛西はテストジャンプを飛べ」と言われました。当時の大倉山は、世界でも怖がられる、非常に難易度の高いジャンプ台で、そこを飛ぶのも怖かったです。そのときが初めて飛ぶ大倉山で、テストジャンプで一生懸命飛びました。試合が終わって次の日、コーチが僕のところに飛んできて、「葛西、新聞を見てみろ、お前が出ているぞ」と言うのです。実は、宮様の大会で優勝した選手が107メートルと108メートルを飛んで優勝しましたが、僕はテストジャンプで同じゲートから出て107メートルと110メートルを飛んでいたのです。なので、陰の優勝者、スーパー中学生ということになり、一躍、注目を浴びることになりました。その頃から、世界を目指そうと思い始めました。
中学を卒業して、札幌の東海大学付属第四高等学校に入学しました。そのころはスキー部のトレーニング以外にも隠れて体育館の中にあるトレーニング室に行って、1人、もくもくと筋力トレーニングをし、帰って部屋でプロテインを飲んで筋肉をつけて、夜はまた走っていました。やはり、これくらいやらないと世界には通用しないと思っていました。その結果、高校1年生の時、STVカップで、大人を抑えて優勝することができ、その年にあった1989年のフィンランドで行われた世界選手権に初めて出場しました。