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No.32 |
北海道心臓協会市民フォーラム2004 「願いは健やかハート」
講 演「頭の健康、身体の健康」
(1/7)
養老 孟司氏
解剖学者、東京大学名誉教授
私はしゃべる時、このように歩く癖があります。先程、島本先生が歩けと言われたからではないのですが、私の唯一の健康法かもしれません。
きょうは「頭の健康、身体の健康」というテーマをちょうだいしていますが、私は、ご紹介いただいたように、長年東大で解剖を教えていましたので、身体の方は一応専門ということになっていますが、教科書によりますと「解剖学は正常な人体を研究する」と書いてありまして、病気は一切関係ありません。私が診ていた患者さんは、ご存知のように、全員お亡くなりになっておりまして、基本的には手遅れだった方々です。従いまして、私は、医療は全く駄目なのです。
医療は社会的なものです。私はよくお医者さんの悪口を言って喜んでいるのですが、皆さんが困っておられてなかなか治らない病気、アトピーと花粉症はまず治らないだろうと予想しています。なぜ治らないか。この病気は、患者さんは困るが、別に死ぬわけでないし、毎年病気になってくれますので、医者としては非常によいお客さんです。治すとお医者さんに叱られます。ところが、患者さんが死にそうな病気では、お客さんが減るので必死で助けようとします。医学とはそういうものだ、と私は理解しております。ですから、アトピーと花粉症は治らないのです。
現代社会は意識が非常に大きくなった社会
頭の健康という題がついていますけれど、我々は普通、身体を意識して使ったり動かしたりしているのですが、これに対して無意識の身体というのがあります。島本先生にあのように話をしていただかないと、自分の身体なのに分からない。皆さんはこれが当たり前とお考えかもしれません。ということは、大抵の時は自分の身体を忘れているということです。
その典型が現代社会だと、私は申し上げるのですが、どういうことかと言うと、一生懸命ものを考えて、予定をいろいろたてて、ああすればこうなる、こうすればああなるとやっているのですが、そのご本人が、自分の告別式の日時を分かっていない。ですから、一生懸命考えている割には、途中で死んだらどうする、ということをあまり考えていないみたいです。
告別式の日時は誰が決めているかというと、身体の方が勝手に決めておりまして、これはいくら考えても駄目なのです。★
現代社会は意識が非常に大きくなった社会です。そうしますと、身体のことが比較的、日常生活の中では留守になります。そんなもの医者に預けておけばいい、というのが一般の方の考え方じゃないかと思います。
それを長年やってきたら何が起きたかというと、なんだか身体の具合が悪い、という意見が出て参りました。先ほどの太る、肥満というのもそうです。私も典型的な男性型肥満で、内臓に脂が溜まっているのが自分で分かります。脂が溜まった人は解剖やると非常に困ります。まずメスが切れなくなる、それから臭い、ツルツル滑るので危ない。ですから、学生さんは太った人を嫌います。私どもは、もう、弘法筆を選ばずで‥‥。
身体のことを意識的にどの程度把握できるか、ということを私はよく考えます。2通りの把握の仕方があります。ひとつは今、島本先生がお話になったような、いわゆる西洋医学、近代科学で客観的に身体をみる方法で、これは医療を通じて皆さんもよく分かっていることです。
もうひとつは、自分自身で自分の身体のことを考える。これは、あまり現代社会では流行りません。私は前からこの方法に興味をもっておりまして、それで、例えば武道の方とよくつきあいます。武道といってもいろいろありますが、特に、甲野善紀さんという方とは、本もいろいろ出しております。
分かりますか「2つの運動を同時別々に」
甲野さんはおもしろい人で、自分の身体を上手に使えます。ついこの間も家に来られ、鉈の使い方を教えてやるとおっしゃる。鉈を2、3種類持って裏山に登り、木を切って持ち帰り、家の庭で叩き割ったのですが、見事に割ります。
鉈の話はどうでもいいのですが、その時、お弟子さんを1人連れてきて、立ち会いをやってくれました。竹刀を持って打ち合うだけですが、こう思い切って斜めに振り、バンと打ち合います。そうすると、お弟子さんの竹刀と甲野師範の竹刀がバチンと当って、そこで止まります。「普通にやったらこう。もう1回やるから見ていて」と、また打ち合う。次にバシッと当たると、何と、お弟子さんが打ち負けて、ぐっと竹刀が押されます。「どこが違うか分かるか」と言われても分からない。
説明を聞けば何でもないことで、普通、皆さんもそうでしょうが、棒を持って相手を叩こうとすると、斜めにこうやります。これを強くしようと思ったら、毎日毎日斜めに振ればいいかというと、多分、駄目です。
甲野さんの説明によりますと、まず、今の斜めに振るという運動は真下に振り下ろす。これは重力の方向に沿った運動ですから、非常に素直な運動です。もうひとつは真横に振る運動です。これは重力とは直角方向ですから、真っ直ぐ下りる運動とは全く関係のない運動です。直角とはお互いに関係ないということです。180度は逆さまですけど、90度は無関係ということです。
竹刀を振り下ろす運動は、真っ直ぐ下げる運動と水平面を回転する運動の合成ですから、甲野さんの説明は、その両者を同時にやればいいということです。
そこが難しい。真っ直ぐ振り下ろす運動と回す運動を、同時に別々にやることが秘訣だそうです。同時に別々にやると、結果的に合成したベクトルになる。当たり前です。
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それを伺っていて、私は「あ、それなら私がやっていることと同じだ」と、申し上げました。
どういうことかと言いますと、私は考えるのが商売ですが、考える時も実は全く同じことをしているな、と気がつきます。つまり、ある問題を考える時に、お互いに全く無関係なものを分けてしまいます。そのひとつの問題の中に、お互いに無関係なことがいくつも入っていますから、それを仕分けて、それぞれについて考えます。そうすると、同じ直角でもいろいろな方向がありますけれど、とにかく全て直角方向のものを一応分けてしまって、別々なものとして考えます。そうやって、そのひとつひとつを延ばしていきますと、斜めの運動はひとりでに延びます。
だけど、普通に皆さんおやりになる時は、大抵いきなり竹刀を斜めに振ろうとします。練習する時は、竹刀を斜めに振るのが練習だと思っておられる。確かに斜めに振れますけれども、恐らく、こうなったり、こうなったりで、絶えず一定でありません。訓練しているつもりでも、あまり訓練になっていません。
私は議論する時に、よく「お前の話は繋がっていない」と言われます。繋がっていないのは、実は考えてみれば当たり前で、こっちの話とこっちの話をして、あとは勝手にお前さん組み合わせな、とこういう話ですから。そうしますと「お前の話は繋がっていない」と怒られます。だけど、本来繋がっていないのですよ。それが私の言いたいことですが、なかなか分かってもらえません。甲野さん流に、実際にそれを身体で見せるとよく分かるのですが。甲野さんは一応やって見せます。自分の身体で出来ますから、文句は言えません。
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こういう身体の理解の仕方があるわけで、これはある意味では主観的な理解です。つまり、自分で2つの運動を同時に別々にやる。これを口で言ったらめちゃくちゃで、同時には出来ないという話になりますが、そういう意識で訓練する、あるいは実際にやると、斜めに竹刀を振り下ろす運動が、今までよりは、よく練習出来て強くなる。
そういうことを口で言ったら「同時に別々に」ですけれど、そんなことは、普通は、出来ません。だけど訓練する時に、今言ったように考えると、何となく納得するところがあります。
そういう当たり前のことを、誰がどうやってきたのか。日本の古典的な稽古事は、根本はそうだったと思います。それを基礎訓練と言いました。
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