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NO.9 |
インフォームド・コンセントとは
(1−1)

北海道大学医学部 循環器内科
講師 野村 憲和
患者は医師や看護婦さんから検査や治療について、十分に説明を受け、心から納得して検査や治療を受けることに同意する。 |
我々は病気の時に病院や診療所などに行き、病気を診断してもらい治療を受ける。この時患者は医師や看護婦さんなどから検査や治療についていろいろと十分に説明を受けて、疑問点などを解消し、心から納得してその検査なり治療を受けることに同意することをインフォームド・コンセントと言う。
しかし我が国では歴史的に「医師は悪いようにはしない」と医師も患者も考え、医師にすべてを任せ、医療をそれなりに行ってきた事を考えると、少し戸惑いが両者に有ると思われる。インフォームド・コンセントの始めは、患者と医療関係者とのコミュニケイションである。
インフォームド・コンセントの第1歩は良好なコミュニケイションから
図1で示すごとく、両者間でのコミュニケイションの難しさは、患者ばかりか医師もその難しさを自覚している。例えば「軽度の肥満ならいざ知らず、病的肥満は本人が食欲に対する自制心がないからで、上に立つ者として不適格である」と良く言われる。
しかし本人にとってみればそれなりに努力していても、どうしようもないことであり、病院でこのように言われるとひどく傷つく。このように普通の会話としては何でもないような会話も、当事者には問題となるような会話は多くあり、両者間の関係を壊してしまうことがある。
また医師の病気の説明には、専門用語という専門家だけでしか通じない言葉があり、これだけで説明されると全く理解できない。お互いが理解できる言葉で、確認しあいながら話す必要がある。
図2に示すごとく患者4〜5人に1人は医師の説明に満足していない。様々な理由が有るだろうが、両者意志疎通のために、お互いもっと努力する必要があるのではと思われる。
インフォームド・コンセントの第一歩は、良好なコミュニケイションから始まる。
1950年代後半から1960年代にかけてのアメリカでインフォームド・コンセントは形づくられてきた
19世紀末から20世紀始めにかけてドイツ、アメリカで「医師の医療行為には患者の同意が必要である」との考えが起こった。
しかし基本的には以前の我が国同様「お任せします」の医療であった。1950年代後半から1960年代にかけてのアメリカで、インフォームド・コンセントは形づくられてきた。
その背景として、
(1)医療が非常に機械化されて非人間的な要素が多くなってきた。
(2)公民権運動や消費者運動そして女性の権利運動などの社会運動の中で、自分のことは自分で決めようとする自己決定権への関心が高まった。
(3)ナチスの残虐行為やアメリカ国内での臨床実験などから、個人の自由や社会的平等の考えが医学倫理に影響を与えた。これらの流れの中から、患者さんに十分に説明して同意を得て医療を行うという考えが生まれ、インフォームド・コンセントとして定着してきた。
そして今では社会的に許される範囲内で、患者が自分の目的に沿って自分の意志で、医師は良き相談相手として、医療について自分で決定をするように変化してきた。
患者と医師は十分な意志疎通を行い、自分で考える患者になる必要がある
人はだれでも病気になる。インフォームド・コンセントの考え方では、そのとき患者は自分の体のなかでどのような事が起こっているのか知る権利がある。医師はそれを説明する義務があるといわれている。それにより患者は自分で医師と相談して自分はどうしたいと意志を決め、それに沿って医療を行なうとされている。
しかし医師には一定の範囲内で自分の考えで、患者にとって良いと思われることを患者の同意を得ずに医療を行なう権利すなわち裁量権がある。(図3参照)
例えば癌(がん)の手術の最中に、事前には分からなかった転移がわかり、その転移の摘出の結果患者にとって多少の障害が残っても生命を救うなら、医師は処理をしても良いとの考え方である。
しかし、これらの患者と医師の状況の中で考えなくてはならないのは、医療の不確実性である。医療において同一の医療を異なる個人に行なって、同じ結果が得られるとは限らない。また時としては思いもかけない悲惨な結果が生まれる事もある。
万が一にも起こるかもしれない事態に対処するために、患者と医師の十分な意志疎通を行ない、自分で考える患者になる必要がある。無論医師の話すこと全てを患者が理解して、判断を下すのが難しいこともまた事実である。医師の判断にそのまま従うにも、何が行なわれようとしているのかを理解し、医療を受けることは必要と思われる。

