★「ニタリノフの便座」を読んだか

 「話しには聞いていたが、これほどとは…」。トイレのドアを開いた私は、絶句した。そこにはあるべきものがなかった。「さてどうしたものか」。椎名誠のシベリア旅行記のタイトルを思わず思い浮かべた。

 わがユジノサハリンスクのオフィスが入っているサヒンツェントル(サヒンセンター)は、1990年にカナダとの合弁企業によって建てられた6階建てのビジネスビルで、建坪約1万2千平方メートルもある。

 サハリンでは珍しいエレベーターと自動ドアのある建物で、道新のほかに三井物産、伊藤忠などの商社をはじめ日本や欧米の企業も多数事務所を構えている。だが、サハリン随一の近代的ビルであっても、なぜか共同トイレの便座は唯一の例外もなく、軒並み持ち去られ(?)、便器がむき出しだった。

 椎名誠ファンなら、タイトルだけでピンと来たはずだ。同名の旅行記にはロシアのトイレ事情が詳しくつづられている。

 実は、ロシアの公共施設では、100%と言っていいほどトイレに便座がない。勿論、ユジノサハリンスクやハバロフスクの空港にもなかった。ある専門学校を訪ねた時にもなかった。

 いや、そこには便器すら無く、ただ床にボコッと穴が開いているだけだった。

 便座のある公共施設を見つけたら賞金を出すという話を、ロシア人の助手にしたら「時間の無駄だ」と言われたこともある。

 ロシア人には公徳心がないのか。半分はそうであり、残る半分は物資がないためだともいわれる。真相は良くわからない。しかし、問題は原因ではなく、こんな時にどうしたらよいかという切実な問題だ。

                       

 さて、椎名誠のシベリア冒険旅行団のメンバーで、ニタリノフというニックネームを頂戴したテクニシャンは、発泡スチロールで手製の便座をこしらえて無事ご用を達せられ、一躍注目を浴びたという次第だ。

 では、わがサヒンツェントルの間借り人たちはどうしているかと言えば、各人各様に涙ぐましい努力を重ねていたのだった。一番安易な方法は便器を跨いで、中腰で用を足すのだが、膝が痛くなり、五分も持たない。これは私も試したが、お話にならない。

 それよりもう少しましな方法は、便器の縁にのっかってしゃがんで済ますことだ。便器にはくっきりと足跡が残る。特徴のある靴を履いている人は、私が先ほどしましたと、証拠を残すことになる。
 
 しかし、これもどうかと思う。ある日、便器に足跡を残してこの方法で済ませたと見られる人物は、激しい下痢だったらしい。壁際に見事な残骸を吹き付けていた。壁に吹き付けるほどだから、自らの足下がどうなったのかは推して知るべしだろう。

 もう少し頭の良い人は、日本の新聞紙を持ち込む。真ん中をくり貫いて便器にかぶせ、そこへ座り込んで用を足していた。まぁ、これもアイデアではあるが、ロシアの新聞は薄っぺらなのが多い。日本から取り寄せる新聞は数に限りがある。

 さて、私はといえば、発泡スチロールも見あたらず、ずいぶん思案した。結局、余った段ボール紙を折り重ねて、2本の板の様にし、それを便器の上に渡して、跨いで座る方法を考えついた。

 これが一番汚れず、お尻も冷たくない。繰り返し使うことも可能だ。仮に日本から便座を取り寄せたところで、そのままトイレに置いておいたのでは、翌日を待たずに持ち去られるのは確実だ。さりとて、便座を持って廊下を歩くのも恥ずかしい限りだ。

 結局、私は在任中に段ボール方式を貫いた。果たして後任の人たちはどうしたことやら。

 まぁあまり気分の良いものではないが、18年前に子供の訪中団に同行した際に、こういうことがあった。

 明の十三陵という遺跡のある観光地では、トイレの中の「個室」に横壁はあるもののドアがなく、座り込んだ姿が前方から丸見えだった。もちろん洋式便器ではないので便座は無縁だが、私は「戦意」を喪失してしまった。

 同行した子供たちの中でも、花も恥じらう女子高校生の団員は、とりわけ大弱りだった。

 結局、1人が入り口に立ってジャンパースカートを横に広げて覆い隠す役を務め、交代で用を足したということで、その時は大笑いした。

 今の中国ではこんなことはないだろうが、昔の農村ではトイレそのものがなかったというからすごい。