★サマゴン

 「まだ、待たされるのかなぁ…」
 さんざん探してやっと見つけた町外れの小さな建物。それからさらに、私とジェーニヤ君はいすに腰掛け、過ぎていく時間と静かな格闘を続けていた。

 ロシアでは、ラスタビィッツア(並ぶ)、ジダーツ(待つ)、テルペーツ(耐える)、プリミリッツア(あきらめ)という言葉が、生きていくのに欠かせないキーワードだと思う。忍耐と寛容こそが、この国で精神の安定を保つサバイバルグッズだろう。

 外国人に開放されたサハリンだが、どこへでも好き勝手に行けるというわけではない。まず、ビザが必要だ。それもユジノのビザがあるからといって、ホルムスクでも、ネベリスクでも、モスクワでもOKとは行かない。訪れる街ごとにビザは必要だ。

 そして外国人は、行った先々で外国人登録が必要なのだ。大抵は、ホテルにパスポートを預けると、ホテルがオビル(外国人査証登録課)や内務局に通知してくれるはずだが、世の中絶対ということはない。長い滞在であれば、届けて置いた方が無難。まして友人の家に泊まるというようなときは。

 ただし、ロシア流に言えば、見つからなければそれまでの話だ。実際、あまり気にせずにいたのだが、オハでは、助手の勧めに従って、オビルで順番を待って登録することにした。

 実は、94年にサハリンの多くの臨海都市が、「国境地帯」として外国人の監視を強めることになった。これもロシアの「揺れ戻し」である。そのため「オハのようなところでは登録して置いた方が無難だよ」というのである。

 オハで、うちの通信員を務めてくれている、地元紙「オハ・オイルマン」の記者、ドミトリー・バラノフさんもそうアドバイスしてくれた。やはり、郷に入っては郷に従えである。

 そこで着いた翌日には早速、オビルへと出向いた。ただ、そもそもオビルの事務所がアパートのような建物の一部にあるのだが、どれも似たような建物のため探すのに往生した。フルシチョフ以後、画一的な建物がやたらに多い。地図が出回っているわけでもなく、慣れない町では地元の人の案内でもないとやたら大変だ。

 そのオビルでは、先客が既に数人いた。ロシア人でも、いまだに大陸への移動などにオビルへの届け出が必要らしい。らしいというのは、この国はあまりに広すぎるためだ。政府の通達が、伝言ゲームのように伝えられていく内に、いつの間にか違った内容になりかねない。あちこちで、勝手に解釈して運用法が違っている恐れがある。行ってみないとわからないことがけっこうあるから困っちゃう。

 さて、何が問題なのか、担当官の部屋に入った先客はなかなかでてこない。一人一人にたっぷり時間をかけて、入念に調べているようだ。

 待ち時間がどんどん過ぎていく内に、こっちが不安になってきた。

 「あれこれ際どい尋問を受けたらどうしよう」
 「おまえはスパイだろう。何しに来たのだ?なんて勘ぐられないだろうか」
 そんなことを考えている内に、ようやく順番が来た。

 担当官は、意外に愛想の良い女性だった。
 パスポートとビザ、それにロシア外務省お墨付きの記者証を見せて、「滞在目的は」「滞在期間は」「宿泊先は…」。こんな簡単な質問を受けただけで済んだ。さっきまでロシア人にくどくど時間をかけて聞いてたのは、何だったんだ。

 「こっちはおかげで半日つぶれてしまったというのに」

 しかし、ぼやいても始まらないのはロシアの常。トラブルもなく、簡単に済んだことをわが身の幸せと考えなければならない。

 そんなこんなで宿泊先の銀行の寮に戻ると、北海道新聞が委託しているオハの通信員、バラノフさんから連絡が入り、夕食に招待された。こんな願ってもないお誘いを断る馬鹿はいない。

 ロシアの家庭料理は、レストラン、ビュッフェよりはるかにおいしいというのが、私の体験的結論だ。バラノフ夫人の手料理も、もちろん例外ではなかった。

                    

 そして実は、手料理以上に密かに、いや露骨に期待していたのはバラノフさん手作りのサマゴン(密造酒)だった。

 ウオツカ(ヴォトカ)の名前は、バァダー(ヴァダー=水)に由来するという。アルコール分40度以上の蒸留酒だ。ふつう小麦、大麦、ライ麦などの穀類を原料とするが、ジャガイモやブドウ、リンゴなど果実や蜂蜜から作ることもあるそうだ。2度に渡って蒸留し、白樺の活性炭で濾過して余計な臭いや不純物は取り去る。

 ここでちょっと脱線するが、ロシア産ウオトカには「ストリチナヤ」、「ストローバヤ」、「モスコーフスカヤ」、「スタールイ」、「ルースカ」などなど色々な銘柄がある。レモンや唐辛子の味付けをされたものなどもある。

 日本では、ロシアより割高で売られているが、アメリカのスミルノフとか日本製のウオツカ(度数がやや低いものが多い)と比べてどうかというと、正直言ってよくわからない。どれも似たように感じるのだが、助手のジェーニャ君によれば全然違うそうだ。

 ロシアでも評判の高いのは、スウェーデンの「アブサルート」。ロシアでも高いのだが、エライ人への贈答用には最高らしい。西ドイツ製と聞いた「ラスプーチン」は、有名だが偽物も多くてお勧めできないという。

 胡散臭いウオツカはあちこちに出回っており、メチルアルコール製ウオツカで命を落としたり、視力を奪われるケースも出た。

 助手のジェーニヤ君は「変な臭いや味のするウオツカは飲んではいけない」というのだが、どうも私にはどれが変か、よくわからなかった。あるレストランで飲んだとき、彼は「このウオツカはやめた方がいいんじゃないですか」というので、仰せに従ったことがあるが、正直言ってよくわからなかった。

 しかし、ここはウオツカの達人であるロシア人のお言葉に従うのが正しい選択だろう。

 まぁ、俺としては中味より先に、出来が悪くてあかなかったり、中身がもれたりするキャップを何とかしてほしいというのが、先に立つのだが。

 さて、ウオツカの飲み方といえば、よく知られているようにぐいっと一息にグラスを空けるのが正しい男の飲み方。「そんな一気飲みは無理だよ」と、びびって少しずつしか飲まない日本人が多いが、これはまずい。「けちっぽい飲み方をするずるい奴」といわれかねない。

 ただ、一気飲みとは言っても、ちょっと誤解がある。いくらロシア人でも立て続けにドバドバ飲む訳じゃない。それでは命がいくつ合っても足りるもんですか。

 まず宴会の始まりに誰かが演説するか、音頭を取って、「ザ バシャズダローブィエ(貴方の健康を祈って)」などとブチあげて、小さなグラス一杯のウオツカを全員であおる。そのあとに、大抵はチェイサーとして水かナピートキというジャムを水で割ったような飲み物などを続けて飲む。だからお腹の中では、水割りというか、ジュース割りの状態だ。

                 

 そしてしばらく歓談したり、食事したりして次にまた誰かが音頭を取って、今度は仕事のためだとか、恋のためだとか、なんたらのためだとかご大層な理由をブチあげて再び乾杯となるわけだ。

 そんなわけで湯水のごとくウオツカを浴びるように飲むわけではないが、それでも長いことつきあっていると、結構足に来る。意識はしっかりしているつもりだが、膝が笑ってどうしようもなくなるのだ。これが怖い。そしてそれから意識がなくなる。

 ロシアでは、冬の路上で凍死する人が後を絶たない。
 私も、お付き合いで、そう「あくまでお付き合いで」がっちり飲んだことがあるが、覚えているのは部屋に戻ったことまで。フッと意識を失ったらしい。ハッと気が付くと、ソファでグタッと寝ていた。

 電球がついていて、しーんと静まり返っていた。時計を見ると午前3時。

 「あれ、ここはどこ?俺は何をしていたんだぁ…」

 何をしてたもないもんだ。酔っぱらってひっくりかえっていたのじゃないか。

 さて、その密造酒、サマゴンだが、バラノフさんのお手製の作品は、木の実だか、木の根だかをつけ込んだモノで、いわゆる無色透明のウオツカとは少々違っていた。たまに見かけるスタールイヴォトカ(オールドウオツカ、スタルカという名が付いている。また、ハンターウオツカといって革袋に貯蔵したのもある)のような雰囲気で、薬酒のような味もしたが、実はこれもけっこうイケていた。

 ちなみにバイソンとかいう草をつけ込んだポーランドの「ズブロッカ」や、アルメニヤコニャックというブランデーも有名だが、ロシアにはビールもある。ロシアのビールは、どちらかというと、地ビールを想像してもらうとわかりやすいかもしれない。最近、札幌でもサハリンのビールが売られているが、ロシアで評判なのはカムチャツカのビールだ。

 実は、ロシアの水道は沸かしてからでないと飲まないのが一般的だ。ロシア人も生で飲まない。しかし、カムチャツカは水が良くて、だからビールもうまいのだという。これはわたしも試したが、炭酸が少ない気もするが、さらっとして飲み易い印象だった。

 さて話を戻してサマゴンの登場に、酒好きの小生が、喜んで乾杯を重ねたのは言うまでもない。

 なんでもゴルバチョフが書記長に就任して、ペレストロイカに着手した時、ソ連経済の建て直しのため、酔っぱらいによる生産性の低迷を打破しようと、ウオツカの生産を押さえ、税金を嵩上げしたそうだ。それが裏目にでた。

 ロシアでは、男であるということはウオツカをあおることだ。少なくとも14世紀ごろから続いているとかいう歴史的文化を、そう簡単に変えられるモノではない。私が20歳でたばこをやめたとき、懸念したのはたばこを吸えない辛さではなく、たばこを吸わないかっこわるさだった。それと同じような感覚だろうと、思う。

 確かに市場からウオツカは減った。だが、密造酒が一気に増えたという。砂糖を原料にするモノが多かったため、市場から砂糖も一気に姿を消したという。そして結局は、密造酒でマフィアの腹を膨らませただけで経済効果も上がらず、ウオツカの生産と流通は元に戻ったそうだ。

 ただ、安いウオツカはやはり舌にぴりぴり来る。それは感じた。そしてロシア産のウオツカよりも、スウェーデン製のアブサルートというウオツカの方が確かにうまかった。この酒は、ちょっとした立場の人へのお土産には大変効果がある。

 ロシア人はブランデーは飲むが、ウイスキーは飲まない。ロシアで手に入りにくい物がお土産に喜ばれるのは確かだが、ウイスキーは例外の一つだ。そんなもの持っていくより、アブサルートの方がよっぽど喜ばれる。意外に、キオスクなどでも手に入るので、私もよくお土産に使った。もちろんロシア産ウオツカに比べると、何倍も高いので、私も自分用には買ったことがなかったのだが。