★北辺の町

 赤茶けた丘の上に、意外に小さな石油のポンプが点在していた。石油を地中から汲み上げるため、規則的に上下する「振り子」。人影はほとんど見あたらない。荒涼とした光景の中で、ただ、静かに時間だけが流れていた。

 サハリン北部には大小の油田、ガス鉱床が30カ所ほどある。オハ油田は、1920年代から生産が始まり、日本も戦前、旧ソ連と共同採掘していた時期がある。人口3万人のオハ市を含め、オハ地域の住民54000人のうち、約2万人は何らかの形で石油生産に従事していた。

 サハリンの北部にあるオハは、ユジノから800キロほど離れた町だ。かつて日本の領事館もあった。サハリン大陸棚石油天然ガスの開発に伴い、ノグリキと並んで時代の脚光を浴びつつある。しかし、94年11月に訪れた時、そこはけっして豊かな町とは言えなかった。

 定期便も満足に飛ばないオハの空港は、滑走路がわずか1300メートルしかなかった。600メートル延長するプランはあるのだが、資金不足で宙に浮いていた。ヘリコプターと数機のアントノフ24がなければ、空港とはとてもわからないかもしれない。

       

 到着して見渡したら、周囲にはうっすらと雪を被った原野が広がるばかりだった。いかにも北辺の地という感じだ。凍りついた滑走路をとぼとぼと歩き、そしてバスに乗って、うねった道を2、30分も走っただろうか。オハの周辺には、大きな樹木は乏しく、赤茶けた土があちこちにむき出しになっていた。

 町にはホテルらしいホテルも無い。地元銀行の寮だというアパートになんとか転がり込んだ。寮といっても、2DKはある。さすが石油と天然ガスの町だけに、台所には都市ガスが配管され、風呂もガス湯沸かし器からたっぷりと出るお湯で満たすことができた。しかし、食事は自分たちでなんとかしなければならなかった。

 ところが、これがまたレストランは軒並み店じまいをしており、ビュッフェが辛うじて昼間開いていただけだった。

 背景には、ロシア経済の衰退が色濃く反映していた。もともと、オハには石油精製基地がない。汲み上げた原油は、一旦大陸へ運び、精製されてから戻されるため、ガソリンも「逆輸入」された形になる。大陸で当時1リットル800ルーブル(27円)のものを、オハではその倍も支払わねばならなかった。雇用の場が限られている中で、エネルギー資源が割高では、産業は育ちにくいのも響いていた。

 サハリンをはじめ極東では、まさに探検隊並みの覚悟と準備がないと取材にならないこともある。都会生活に慣れた日本人には、ちょっときついが、泣き言を言っても始まらない。ユジノから持ち込んだ韓国製の辛口ラーメンやら、乾パンでしのぎつつ取材に走った。

 「実は、陸上の油田はもうほとんど枯れかかっているんだ」

 オハ市のヤルリン副市長は嘆いて見せた。北サハリンではピーク時の70年代末、原油生産は年間250万トン、ガスは同22億立方メートルあった。それが今ではそれぞれ150万トン、15億立方メートルに落ち込んでいた。これが大陸棚の資源開発を急ぐ理由でもあった。暗く沈んだ町を立て直そうと、地元行政も石油・天然ガスの新たな開発に最大級の期待を込めていた。

                 

 開発に取り組む地元ロシア側、サハリン海洋石油ガスのオガニシャン副総裁は「2001年に、開発プロジェクトのサハリン1やサハリン2の生産が始まれば、石油は年間2500万トン、ガスは350億立方メートル供給できる」と自信を見せていた。ヤルリン副市長も「石油精製工場の建設も検討しており、現代的で文化的な町にしたい」と、大陸棚開発を生かした町づくりの青写真を描いていた。

 だが、こうした思惑が果たして地元住民の幸せにつながるのか。雇用を創出する関連産業の立地など、具体的な話は今もあまり聞かれない。ある年金生活者は「石油開発と自分の暮らしが結びつくとは思えない」と、悲観的だった。

 そして気になったのは、油田地帯の小川に浮かぶ原油。それはオホーツク海へも流れ込んでおり、決して豊かとは言えないこの地域の自然環境にさらなる負荷をかけているように思えてならなかった。

 大陸棚の石油天然ガス開発が動き始めたいま、はたしてオハの町には多少なりとも明るさがともっているだろうか。