★板前修業

 「イラッシャイマセ」

 格子戸を開けて、暖簾の向こうへ。一歩足を踏み入れると、お揃いの制服を着た女性たちがにこやかにお辞儀をしながら迎えてくれた。

 寿司のカウンターにテーブル席、小上がりもある。

 障子で仕切った小部屋もある。白い衣裳の板前さんが、柳葉包丁で刺し身を用意していた。

 「今日はねマグロが入ったよ」

 ウェイトレスが、ロシア人であることを除けば、ここがサハリンであることを忘れてしまいそうだ。

 1994年12月、ユジノサハリンスクのサハリン州政府庁舎近くのビルに誕生したレストラン「飛鳥」。

 「ダー(はい)ニギリ、イッチョウ」

 板前見習のアンドレイ・アクーリッチさん(当時25歳)。ここに勤める前に、別の日本料理店で3年の経験がある。

 まだ、日本人の板前さんの指導を受けてはいたが、3人の見習の中では筆頭株。

 「日本の味をマスターするのは難しいけど、将来はどんぶりの店をやってみたい」と、意気込みを見せてくれた。

 いなせな板前さんの姿も堂に入っていて、練習で握る寿司を食べてみたいと思ったが、「お客さんに出すにはまだ早い」とストップがかかった。

 シンガポールとロシアの合弁による異色の店だが、経営の核となる支配人や板前さんは、村山一二三さんや成田節雄さんら北海道出身者が担当していた。

 村山さんらは、実は、ユジノで最初に誕生した日本料理店で支配人や板前を経験した人だ。

                   

 ボルシチとウオツカのロシア極東で日本料理店を開くには、まずソビエト流と戦わなければならない。

 従業員たちは、およそ日本人の考える客商売の常識とかけ離れている。

 「育った環境が違うのです。ロシア人たちは、社長が一番偉いと思いこんでいます。だから社長の言うことはそれなりに聞くのですが、お客に対しては食べさせてあげているという感じになりかねません」

 成田さんは、従業員教育の難しさをこう説明してくれた。

 確かに、ロシアでは客の方が恐縮しながら食事を頂かなければならない店もあった。そこまで行かないまでも、ぶっきらぼうなウェイトレスは珍しくない。

 当時、私が何度か通ったハバロフスク・インツーリストホテル内の日本料理店「ユニハブ」も、同僚の取材では「片づけろと言ってもおしゃべりばかり。

 日本人は短気だからまず飲み物を持って行けといってもなかなか徹底しない」と嘆いていた。

 「自分の受け持ち以外の仕事はしない」「技術を磨こうという意欲がない。二つのことを同時に出来ないから何度も鍋を焦がす」「覚えようという意欲はあるが、日本人がいないと自分流に戻る。サンマの塩焼きに塩コショウしかねない」などの厳しい声も聞かれた。

 そこで「日本ではお客様が一番偉い。料金には、あなたのサービス料も入っているのだよ。お客様を自分の大切な赤ちゃんだと思って気を使いなさい」と懇切丁寧に教え込み、ようやくお店にだせるようになった。

 とはいえ、話せる日本語はごく限られていた。この国では、サービスの伝道師たちの苦労はなお続くようだ。

 ところで、日本料理店が日本人のお客だけを相手にしているかというと、そうでもない。

 私の在勤当時も、ロシア人のグループをしばしば見かけた。さすがに箸は使いにくく、フォークでというお客も多かったが、刺し身や天ぷらなどを美味しそうに食べていた。

 中には生魚は苦手という人もいるのだが、火を通さない料理は珍しいこの国では意外に評判がよかった。

 私の助手のジェーニヤ君は大のカツドンファン。「日本酒では酔わない」といいつつも、何杯も熱燗を傾け、そして「カツドンはうまいなぁ」と繰り返していた。

 私は取材相手のロシア人をしばしばご案内した。

 どうも小上がりは苦手らしく、テーブル席の方が落ち着いたようだが、中には人目に付かないようお座敷にひきこもらなければならないお相手もいて、結構こちらも気を使った。

 ロシアは口コミ社会だけに、日本のマスコミとつき合っているということがあまり噂になってもまずいケースはある。

 もっとも、当時の料金で寿司が2500円前後、鍋物は2、3千円はしていた。平均月収が1、2万円のサハリンでは、来店できるのは会社経営者や高級官僚など一部に限られている。

 中には、氏素性の怪しいロシア人も見かけることはあったが、水産物の貿易などで裕福になった新ロシア人たちは、日本料理店で食事することが一種のステータスでもあるようだった。

                   

 ただ、日本食にご満足のロシア人たちも、日本スタイルに不満を持つことがあった。いわく「ダンスがしたい」「音楽が静かすぎる」というのだ。

 ロシアのレストランは、音楽バンドが入ったり、レコードが結構な音量で流されることが少なくない。

 そしてタンツァバッツア(ダンス)は、お約束のお楽しみなのだ。経済の厳しい中で外食は贅沢でもある。それだけに行った以上は、しっかり基を取れるだけ楽しいたいの人情だろう。

 しかし、それはいかにお客様が神様でも飲めない相談だ。日本料理店らしさが無くなっては基も子もない。

 ロシアで日本料理店を維持するのは大変なことだ。

 前述の「湖」は1992年夏、根室市の有限会社「飯作水産」と民間会社「モレプロダクト」が提携して作られた合弁企業「ユネーム」が経営母体だった。2階はレストラン、1階はバー。合わせて160人が利用できる店だった。

 しかし、自宅へ強盗に押し込まれた板前さんが帰国するなど、さまざまな苦難を乗り越えやっと軌道に乗り始めると、ロシア側経営陣は「もう日本人の手を借りなくても大丈夫」。

 店はロシア人だけで切り盛りされるようになった。やがて店内にはロックが流れた。味もお客あしらいも次第にロシア流になって行った。そしていつのまにか店はすっかり変わってしまった。

 似たようなことがハバロフスクでもいくつかあった。

 その理由は、概ね合弁相手のロシア側が乗っ取って、その後経営を誤って衰退させたり、日本料理とは名ばかりのロシア料理の店になってしまうケースが多いようだ。

 ただ、経済混乱の続くロシアだけに、一部の裕福なロシア人や外国人を相手にした商売では、厳しいのも現実だ。

 日本からの観光客、商用客の流れが定着したらそれなりに期待できるのだが、1995年にはユジノだけで5軒もあった日本料理店が、現在では実質2軒にとどまっているという。

 異境の地で、なじんだ日本食にありつけるのは救いでもある。日ロ間の友好と交易を拡大するためにも、良き橋渡し役になると思うのだが。