★診断

 「田村さん、こんな相談しても良いのかどうか迷ったのですが、李の様子がおかしいのよ」

 1994年の秋、事務所に金栄浜(キム・ヨンビン)さんが訪ねてきて、深刻な表情でぽつりぽつりと話し始めた。

 李さんというのは、金さんの夫、李斡豹(リ・ハンピョウ)さんのことだ。

 李さんは、残留韓国人2世で、サハリン唯一のハングル紙、「新高麗新聞(セコリョシンムン)」副社長をしていた。

 李さん夫婦は、北海道新聞の特派員をはじめ、道新の記者が極東での取材をした際には少なからず、お世話になっていた。

 通訳として、また、取材のアドバイザーとして、さらに友人としてどれほど支えてもらったかわからない。お2人を頼って、日本からたくさんのジャーナリストが訪れており、中にはお2人を自著の中で紹介したケースもあった。

 李さんは、豪快で、明るく、優しく、そしてお酒のめっぽう強いおじさんだ。

 何度もお宅に招かれたが、にこやかに笑って歓迎してくれては、大きな声で「さぁ、私のところへ来たらウオツカをぐいっと飲みなさい」とくる。

 唐辛子の利いた得意料理、「李さん鍋」を囲みながら、「取材はうまくいってますか。そうですか。じゃぐいっといきましょう」。

 「田村さん、もっと食べて元気を付けなくてはいい仕事できませんよ。さぁもう一杯」

 実に楽しいお酒の人だ。

 昼間、新高麗新聞社を訪ねた時なども色々アドバイスをいただいたが、夜間に助手のジェーニヤ君と連絡が付かないときも、李さん、金さんに相談してどれほど救われたかわからない。

 金さんも、新高麗新聞の記者だったが、私が駐在していた頃は、サハリン教育大学の日本語講師をする傍ら、道や北海道経済界の要請でサハリン訪問団の通訳をしたり、北海道へのロシア側訪問団の通訳をするなど八面六臂の活躍をしていた。

 私にとっては、公私に渡って「サハリンのお父さん、お母さん」と呼べるご夫婦だが、この日の金さんは普通ではなかった。

 聞けば、李さんは吐いたり、下痢をしたり、夜中に腹痛を訴えたりと消化器の異常を訴えていたが、地元の病院へ行っても、さっぱり症状が改善されないでいた。

 病院側は、腸カタルというような診断で、「お酒や脂っこいものを食べないように」と指示したが、絶食に近いような食生活の末、小康状態になってもまたすぐもとの状態に戻ってしまった。

 病院に入院した李さんをお見舞いしたこともあったが、退院後にあるナイトクラブで会った時、李さんは「もう大丈夫」と元気に胸を張るのでつい、シャンパンスコエ(ロシア製スパークリングワイン)で乾杯したことがあったが、その後、李さんはトイレに駆け込んだこともあった。その時、李さんは「なんでも無いよ。でもそろそろ遅くなったから帰りましょうか」と、なぜかいつになく早々と引き上げた。

 どこか変だと思っていた矢先の金さんの訪問は、やはりそのためだったのだ。

                    

 金さんは、これ以上暗い顔はないと言えるほど思い詰めた表情で言った。

 「私は、友達に言われました。やれるだけのことをやらないと、後で後悔するよと。お金はなんとでもします。李を日本の病院で治療させてやりたいのです。どうしたら、北海道の病院で治療を受けられるでしょうか」

 「やはりそんなに悪いのですか。もしかしたら膵臓ガンなのでは…」と、のどまで出かかった言葉を私は飲み込んだ。金さんもある程度覚悟はしているだろうが、先走ったことを言って無用な不安を煽る必要はない。ただ、李さんの症状は、昭和天皇がたどった病状経過とあまりに似ていた。

 「これは一大事だ。のんびりはしていられない。もともと検査施設や薬が不足しているロシアだ。治療の効果が上がっていないとすれば、このままでは大変なことになる」。

 ユジノサハリンスクの少年、コースチャ(コンスタンチン・スコロプィシヌイ)が大火傷を負って、札幌医大に搬送され、治療を受けて命を救われたのは1990年8月。まだ、記憶に新しい。コースチャも、ロシアの病院では救うことができなかったのは火を見るより明らかだった。そう思った私は、金さんに言った。

 「うちの社は、李さん、金さんにどれほどお世話になったかわかりません。我々の力で何ができるかにわかにはお答えできませんが、早速、お世話になった連中に声をかけてなんとか方法を考えてみます。ぜひ日本で治療を受けた方が良いです。私たちもできる限りのことはします」

 「ありがとうございます。私もなんとかして、主人を説得します。このままでは、私も納得できません」

 李さん夫婦の世話になった社員は、初代ユジノサハリンスク駐在記者をはじめ蒼々たるメンバーが10人近くに上った。

 早速、衛星回線の電話で、本社に勤務していた主立った顔ぶれと相談したところ、やはりコースチャの治療に当たった札幌医大で診察を受けてもらうのが良いとの結論となった。

                   

 とりあえず、私は李さんが地元病院で受けた診察、治療内容を医大側に報告することになり、金さんにカルテを取り寄せてもらった。

 さぁ、二人でそれを日本語に翻訳したのだが、ベテラン通訳の金さんも専門的な医学用語となると一苦労。私が日本から持ち込んだ辞書を調べ、もっとも日本語的な表現を相談しながら選んで、なんとかまとめることができた。

 その翻訳をもとに、医大側との相談した。その結果、取り敢えず医大病院で診察を受けることに落ち着いた。

 ただ、李さんはもちろん国民健康保険に加入しているわけでもなく、ロシアではガン保険があるわけでもない。診察、手術、入院費用などがまともにかぶれば、大変な負担だ。

 私たちも、大したことをできるというわけではないが、みんなでカンパして、2人の渡航費用の足しにでもしてもらおうと取り組んだのは言うまでもない。

 診察の結果は、やはり膵臓ガンだった。ただ、幸いにしてそう悲観したものでもないという段階で、手術、治療はユジノの病院で行なうことになった。

 そして手術は無事成功。李さんのお腹には大きな手術後が残ったが、元気な李さんは笑顔とともによみがえった。

 札医大での診断が無ければ果たしてどうなっていたか。ロシアでは、医師や教師などインテリの給与が必ずしも恵まれていない。

 人材が集まりにくくなっている。さらに医薬品や設備の不足、老朽化も目立つ。脂っこい料理やしょっぱい食品、ウオツカ好きの食生活が影響して、心臓病など成人病のため50代で亡くなる人が多いが、高度な医療技術の必要な病に陥れば大変だ。

 「死にたくなかったら、ロシアの医者にはかかるなよ」。そんな冗談が、冗談と思えない昨今だ。