★ウオツカは薬

 助手のジェーニヤ君が、風邪を引いてゲホゲホせき込んだことがあった。

 「田村さん私は胸が痛むのですが…

 「おい、大丈夫か。すぐに病院に行って見てもらいなよ」

 「私は正直言って、ここの医者にはかかりたくないですよ」

 「そんなこと言っても、こじれたらどうする。万一のことでもあったら、モスクワのお母さんに申し訳できないよ」

 私はそう言って、半ば強引に彼を病院へ行かせた。

 しばらくして帰ってきたジェーニヤ君はこういった。

 「私は、心臓が悪いそうです。こういう薬を飲めと医者に言われました。でも、薬局にはそんな薬は無いんです」

 これは困ったと、正直言って弱った。いくら用心を重ねた私でも、富山の薬売りじゃあるまいし、心臓の薬までは持参していない。「大陸の都市の病院でも行かせようか…」と、考えた。

 しかし、ジェーニヤ君は慌てず、騒がず、こういった。
 「風邪を引いただけなのに、心臓が弱っているなんていう医者を信用しない方がいいに決まっていますよ。大丈夫です。こういう時はウオツカをやるのが一番です。どうです、田村さん。ウオツカを百グラムくらいパーッとやりましょうか」

 「まったく人騒がせなんだから。まぁ酒が飲めるくらい元気なら心配ないさ」

 ロシアでは、具合が悪いと「じゃあウオツカを」、お腹がゆるいと「じゃあチャイ(紅茶)を」と、二言目には言われた。まぁ、半分はジョーク−だと思うが…。

 俺が、急に原因不明の脱力感に襲われて自室で二日ほど寝込んだ時も、突然、ジェーニヤが洗濯物と肉と野菜とウオツカを持ってやってきた。

 見舞いに来たとはいうのだが、どうも俺の部屋にある洗濯機で洗濯するのが目的と思えて仕方がない。調子が悪くて、人を見る目までいやしくなったかな・・・

 「おいおい、何も調子の悪いときに自分の都合で洗濯しにくるかよ」と、思いつつも、一方で「寝てばかりで、会話もなく過ごしている身には、人が訪ねてきてくれるだけでもうれしい」ものだ。

 「しょうがない」といいながら起きると、ジェーニヤ君は手際よく洗濯機に洗濯物を放り込んだ後、ホットプレートで鉄板焼きの支度をしてくれた。豚肉に、ニンジン、タマネギ、ジャガイモのスライスを加えて焼き始めると、これがたまらなく良い臭いをあげた。つい少し前までだるかった体が、気のせいか少し元気になってきた。

 そしてお約束の乾杯。
 「ザ バーシェ ズダローヴィエ(貴方の健康を祈って)」ときた。

 ところで、ロシアの宴会でウオツカを飲むときには、一定のルールがある。一人で勝手に飲まず、そろって杯を飲み干すということだ。

 大抵は、代わる代わるに立ち上がり、「○○さんの仕事ぶりは、みんなのお手本だ。彼の仕事が一段と成果を上げるよう祈って」とか「今日のおいしい料理を作った奥さんの腕前をたたえて」とか、ひとくさり演説して、小さなグラス一杯に注いだウオツカを煽る。

 このとき一気に飲み干すのが基本だ。

 残したりしてチビチビ飲むと、「あいつはずるい奴だ」とか「しみったれた奴だ」とかいわれかねない。

 40度くらいの酒を一気に煽るのは、日本人の酒の飲み方とは違いすぎるが、ただ、飲むと入っても次の乾杯までには若干の時間がある。次から次にぐいぐいというわけではない。

 また、基本的には、ぐいっとウオツカを煽った後にチェイサーが付き物だ。ジャムの水割りとか、ジュースとかを飲んで、井の中でアルコール分を緩和するのだ。

 日本人でも、この飲み方ならそこそこにお付き合いはできる。胃の保護と、アルコールの吸収を和らげるため、脂っこい料理を食べておくとなお良い。

 ただ、それでも後から結構効いてくるのは確かだ。私も、自室に戻って、ソファに腰掛けたまま眠りこけたことは何度もあった。この酒は、来るときは、一気に来る感じだ。

 ところで日本人には、体内にアルコール分解酵素が少ない人や無い人が居る。このためあまり飲めない人、まったく下戸という人の場合は、ロシアの宴会は辛いだろう。

 ワインやシャンパンスコエで勘弁してもらうか、最初からことわって、ジュースにでもして乾杯するしかないだろう。

 大事なことは、その場の雰囲気を白けさせないように気配りすることだ。飲まない分、人より余計に楽しそうに振舞うことが礼儀だと思う。

 絶対にしらけていちゃいけない。時計を見てもいけない。周りの人たちは、「きっとつまらないのだろう」と思うことは間違いない。

 さて、話は戻って、体調が良くなったとはいえさすがに酒など飲める体ではないと思ったのだが、鉄板焼きに食欲が戻ってきただからと、試しに飲んでみた。すると、これが体の奥からエネルギーがこみ上げてくるようで、実に快い。

 「うん、もう大丈夫だ」

 「ウオツカさえ飲めば、もう心配ない。ダイジョーブ」

 単に飲み助の私が、酒の勢いで元気になっただけかもしれないが、その時は本当にウオツカの力を信じた。

 ただし、ある時サハリン北部へ取材旅行中にお腹を壊したときばかりは、どうしようもなかった。

 旧日ソ国境の手前、ポロナイスク(敷香)のレストランで食べた肉が良くなかったらしい。私一人、ビーフシュテークスとは名ばかりのハンバーグを食べて、下り特急列車に乗ってしまったのだ。

 「下痢にはチャイに塩を入れて飲むのがよい」という、臨時の通訳を努めてくれたロシア人女性のアドバイスに従ったのだが、「さらに効果を上げよう」と、いや実は「もう大丈夫だろう」とウオツカを飲んだのが悪かった。もっとひどいことになり、水便状態で身動きがとれなくなってしまった。

 かつて日露戦争の時にもてはやされた「ロシアを征する」という日本の丸薬も効かず、ひたすら湯冷ましで水分を補いつつ体力の回復を待つしかなかった。まったくお恥ずかしい限りだ。

 でも、日本ほど開業医が多いわけではなく、病院もけっして頼りになるとはいえないのがつらいところだけに、自分の体は自分で治すのが一番。そして体を壊さないように管理をするのも大切な努めだろう。