★自然の力


 「話が違うじゃう!なんなんだこれは?」

 追い払っても、追い払っても敵は数を頼りに攻めてきた。

 ありとあらゆる予防策は、まったく効果がなかった。私は集中的な攻撃にただ耐えるのみだ。後は一刻も早く写真を撮り終えて、その場を逃げ去るしかなかった。

 サハリンには豊かな自然が残されている。それだけに、野生のパワーはすさまじい。

 北緯50度。旧日ソ国境地帯にかってあった国境標石を探して藪の中に入り込んだ私は、猛烈な蚊の大群に襲われた。

                      

 ある程度、覚悟はしていた。だから私は虫よけスプレーに加えて、蚊が嫌う音波発信器まで用意していたのだ。

 虫よけスプレーは、同じ長い時間は持たないと聞いていた。汗で流れると効果も薄れる。そこで、私が秘かに期待していた最終兵器は、この音波発信器だった。

 私の聞いた話では、血を吸うのは雌の蚊だ。雌は、産卵前に血を吸うのだが、この時期は雄の蚊を近づけない。そこで雄の羽音に近い周波数の音波を発信すると、雌は近づかないというのが、この発信器の仕組みなのだ。

 「文明の力をみせてやる」

 だが、サハリンの藪蚊にはまったく通用しなかった。

 私たちを襲った蚊は、黒っぽい体に白い縞の入ったタイプ。

 種類は良く分からなかったのだが、虫よけスプレーはおろか、期待の最終兵器もまったく役に立たず。むしろ蚊を呼んでいるのではないかと思えるほどだった。

 「しまった。蚊取り線香を持ってくるんだった」

 実は、ハバロフスクの空港ビルで、ロシアの電圧に合わせた電子蚊取り機があるのを見つけて買い込んで以来、私は蚊取り線香を段ボールの奥底にしまいこんだままにしていた。

 意外に暑いサハリンの夏は、窓を開け放して寝たくもなる(ただし、防犯上の問題はあるが)。そんな時に、電子蚊取り機のお世話になりっぱなしで、蚊取り線香の存在すら忘れていたのが災いした。

 悔やんでも後のまつりとは、このことだ。手を振り回して、少しでも蚊が近づかないよう私は、懸命だった。

 事情を知らない人が見たら、サハリンで阿波踊りをしているのかと思われたかもしれない。

 しかし、じっとしていると大変だ。それでは写真も撮れない。メモも取れない。仕事はお手上げだ。でも蚊には刺されたくない。猛烈なかゆみと聞いていた。

 ところで、探検、冒険の分野で、私がエンターテナー作家として最も好きな椎名誠氏は、蚊についての蘊蓄をユーモアたっぷりに書きつづっている。この人が書いたルポは、真に迫りつつ、思わず笑いがこみ上げてくるのが救いでもある。

 詳しくは、椎名氏の著作を読んでいただければよくわかるのだが、シベリアのツンドラ地帯に巣くう蚊に襲われると、生命の危険すら感じさせるようなすさまじさのだとか。私が出会ったのなどまだまだ可愛い類かもしれない。

 釧路湿原の蚊も、虫よけスプレーなんぞへとも思わずに果敢にアタックしてくるそうだが、こういうワイルドなタイプの蚊には、米軍が使っている軟膏タイプの虫よけでないと効果がないと聞いた。

 まぁ確かに、自然界ではそうそう獲物が見つかるわけでもないだろうから、いざという時にたっぷり血を吸い取ろうと、敵も必死なのだろう。それだけにたまったものではない。

 前述したように、私を案内してくれたアルカージ・ブリニョーフさんは、一番被害を受けていた。

 先頭を歩いていて、しかも私の質問に答えるのに夢中になり、蚊を振り払う注意がおろそかになったせいだ。まったく気の毒なことになった。

 ほほも、額も、首筋も、肌の露出したところはあちこちぷくんと腫れている。それも直径1・5aはありそうなくらいの腫れかただ。

 さすがにサハリンのワイルドな蚊は、ダイオキシンだのといった環境ホルモンに汚染はされていないだろう。でも、その分天然の毒素がみなぎっているのだろうか。

 やはり噂通り猛烈にかゆいのである。

 落語やホームドラマで、蚊に刺された時にパチンとたたき、ポリポリと掻く場面がよくある。しかし、ここではそんな甘さではない。

 おまけに逃げても逃げても追ってくる。やっとの思いで車にたどり着き、その中に蚊が入り込まないよう気を付けても入り込む。

 そいつらをパチン、パチンと叩きつぶしてやっと人心地が着いてから、虫さされの薬をバッグから取り出すことができた。

                 

 ブリニョーフさんをはじめ、私もスタッフも軟膏を刷り込むように付けた。そしてほどなく腫れが引き、かゆみも失せたのには驚いた。

 日本では逆にすぐにはかゆみが取れず、しばらく続いていたような気がする。サハリンの蚊には、日本の薬が向いているのだろうか。

 「日本の薬は、やはりよく効くね」と、ブリニョーフさんも感心してくれた。私は、「死にたくなかったらロシアで医者の世話になるな」とからかわれていたこともあって、色々薬を持参していた。

 それで、その軟膏は彼に進呈したのだが、今度サハリンやシベリアへ行く機会があれば、殺虫スプレーを必ず持参したい。

 エアゾールは、機内持ち込みに制限があって、多少難があるが、日本の殺虫薬の実力をぜひ試したいものだ。

 強欲な、ワイルドな蚊たちが、はたして蚊柱ごとパラパラと落ちてくれるだろうか。