★地震と津波の島で

 94年10月5日。サハリン時間で、午前0時半に近かった。

 「さぁもう寝ようか」と、ベッドに腰掛けた瞬間だ。グラグラっと来て、電灯が消えた。地震だということは、すぐにわかった。ただ、灯りも程なく回復し、それほど深刻には思わなかった。
 「サハリンで地震というのは珍しいなぁ」。そんなのんびりとした気分だった。

 それからほどなく電話が鳴った。
 東京支社の外報部から、国際電話がかかってきたのだ。
 「北海道東方沖で地震が発生したので、北方領土にも影響がでているようだ。情報を当たって欲しい」
 電話の声が、うわずっていた。それもそのはず、サハリンまで揺れたのだ。道東では、大きな被害がでていた。北方領土が無傷でいるとは思えなかった。

 しかし、現地とは通信が途絶え、まったく事情がわからないまま時間だけが過ぎた。しかも日本と経度はほぼ同じでも、サハリンと現地の時刻は、日本時間より2時間も先に進んでいる。

 朝になって、ようやく断片的に情報がつかめるようになってきた。
 事態は、予想以上に深刻だった。

 真珠湾奇襲の連合艦隊が事前に集結したことで知られる択捉島の単冠湾、その北部にあるガリャーチークリーチーでは、病院が全壊したのをはじめ、色丹島では建物の九割が倒壊し、湾内に停泊していたほとんどの漁船が3メートルを越す津波で陸に打ち上げられていた。

 当日確認された死者・行方不明者は17人、住宅を失うなど被害にあった北方領土の島民は人口の3分の1近い5千人に達していた。

 

 「なんとかして現地の具体的な様子を知りたい。写真も確保しなければ」と焦るが、島へは思い立ってすぐに行けるような交通事情にはない。ましてこういう事態の中ではより難しくなっている。

 しかも、北方領土は日本の領土としながらも、日本人が現地に入ることに日本の外務省は「ロシアのビザを得て入域することは、ロシアの実行支配を認めることになる」として頑なだ。

 我々、駐在記者は既に全ロシアに及ぶビザを得ている。今更ビザをもらうもらわないに関係なく現地に入ることは物理的に可能だが、無用の摩擦を招いている時でもない。

 ここは取り敢えず、創意と工夫で乗り切ることにした。ユジノの提携紙「ソビエツキー・サハリン」の協力も得て、現地情報を集める一方、助手のジェーニャ君に現地へ渡ってもらい、写真と情報の入手に努めてもらうことにした。

 発生から2日後、国後島の住民が味わった地震当夜の怖い体験を聞くことができた。その内容は次のようなものだった。

 −古釜布(ユジノクリーリスク)の音楽教師、オリガ・サンコーワさん(当時40歳)は、パジャマ姿のまま靴も履かずに子供を抱いて出口に走った。しかし、アパートの出口は枠がゆがんでドアが開かなかった。停電でまっくらなホールには、逃げまどう人々と泣きわめく子供の声が響き、ごった返していた。

 夜明けとともにダーチャ(別荘。ロシアでは、山間部などに小屋を建て、畑を耕すのが一般的だ。別荘といっても、日本の感覚からすると質素なものが多い)からアパートに引き返した産婦人科医のワレンチナ・バイドロワさん(42歳)は、思わず立ちつくした。水道管に亀裂が入って、家中が水浸しになっていた。

 停電は比較的早く回復したが、水道は止まったまま。水の配給に長い列が続いた。食料品は売られていたが、音楽教師のリュドミラ・カズロワさん(48歳)は「ソーセージが1キロ9千−1万2千ルーブル(350円から460円)と、倍近くになった」と憤慨していた。

 この地区だけでも家を失った170世帯が、テント生活を余儀なくされていた。余震が繰り返される度に人々はおののき、沖に停泊している客船に乗りたいと海岸へ詰めかける姿もあった。

 発生から3日目の7日、ついに被災直後の国後の悲惨な様子が写ったフィルムを入手した。国後島の写真家、ゲンナージ・ベレジュークさん(37歳)が、提供してくれた。知人の写真屋へ駆け込み、至急カラー現像と焼き付けを頼んだ。料金は多少かかったが、そんなことにかまっていられなかった。

 仕上がった写真を見て、息を飲んだ。
 桟橋には、津波で打ち上げられた漁船が横倒しとなり、桟橋自体もすっかり陥没していた。後方の湾内には、浸水して沈没寸前の船もある。水産基地のユジノクリーリスクが大打撃を受けたことは間違いなかった。

 海岸から300メートルも内陸の草地にぽつんと佇む家があった。津波で流されたのだという。北海道で観測されたよりはるかに大きな規模の津波だったようだ。

 実は、択捉、国後、色丹の三カ所には地震と津波の観測所が置かれていたが、財政難で1年前の93年10月に相次いで閉鎖されていた。サハリン州では、ユジノと北千島のシムシュ島にしか地震津波観測所が残っていなかった。

 しかも、ユジノの地震観測器の電源が半日前に切られていた。観測センサーのある地域で送電線の工事が行われたためだった。「地震を予測することも、津波警報も出すことができなかった」と関係者は苦悩の表情を浮かべていた。悪いときには、悪いことが重なるものだ。

 さらに、当時国後、色丹、歯舞を所管していた行政区の南クリール地区長、ポキージン氏の執務室は机が散乱し、舞い上がったほこりにまみれていた。台所には、食器類が散乱し、足の踏み場もないありさまだ。ポキージン氏の表情もどこかうつろだった。

 また、大型燃料タンクはひびが入り、油がドクドクと漏れていた。近づく冬を前に、島民にとっては深刻な状況が募っていることが写真からはっきり読みとれた。

                  

 その後、色丹島が50センチも沈下していたことや、同島の斜古丹湾に10基ある燃料タンクの大半が壊れ、重油など1500リットルが湾内に流れ出たほか、斜古丹湾の北部地区に幅20メートル、深さ15メートル、長さ500メートルにわたる大規模な地割れが起きていることも明らかになった。

 一方、島の生活に見切りを付けて、サハリンや大陸へと疎開する人が相次いだ。そのうちの一部はユジノサハリンスク市内の保養所で避難生活を始めた。

 こうした自然の驚異に翻弄された人々は少なからず心に痛手を負っていた。

 色丹島穴間(クラボザボツコエ)から16歳と7歳の男の子を抱えてきたスベトラーナ・チャイキナさん(40歳)は「家中、何もかもめちゃくちゃに壊れて、荷物はバッグ2つだけ」と、放心したように話していた。

 2年前、夫に先立たれ、経理の仕事をしながら子供を育ててきたが、もう島を出る決意を固めていた。「怖かったわよ。だれだって、子を持つ母親ならあの島に住みたいとおもわないわ」。そういって涙ぐんだ。

 そばにいたマリヤ・メフリャコワさん(41歳)も、半年以上給料の遅配が続いている島の実状を訴える。

 「給料ももらえずに、だれが小屋のようなところで貧乏な暮らしをしたいと思いますか」

 日本からの援助についても、「私たちの期待が日本に伝わるかしら。みんな上の人たちが勝手にやっていて私たちの声は日本に伝わらないでしょう」と、政治不信の声が飛び出た。
 そこには島民の暮らしを顧みもしないくせに「島は日本渡さない」と、国益論ばかり唱える州政府やロシア政府への怒りがこもっていた。

 同年10月末の調査では、色丹島の住民約6500人のうち95%が大陸やサハリンへの移住を申請しており、ほとんどの島民の気持ちが島から離れてしまった。

 こうした人びとの思いをよそに、サハリン州政府やロシア政府はあまりに露骨な政治的駆け引きに腐心していた。

 日本からの人道支援物資が四隻の船で国後島に到着した10月15日、当時のクラスノヤロフ・サハリン州知事は地元放送局のテレビカメラに向かって不機嫌そうに語った。

 「島民が本当に望んでいる品物はクレーンなど復興に必要な重機だ」とし、日本から届いた医薬品や食料にあからさまな不満をぶつけていた。

 しかし、当のご本人は6日夜、ユジノで開かれたサハリン州非常事態委員会の席で、ロシア政府の災害対策責任者だった当時のヤロフ副首相とこんなやりとりを交わしていた。
 「日本がどんな援助物資を望むか尋ねてきたが、今支援を受けるのはまずい」
 「ロシアの援助物資があまり届いていない。日本人を先に入れるな」

 そして州政府は地震発生から1週間近い10日に、こういったやりとりに沿って駐ハバロフスク日本総領事館に「心からの人道援助なら受け取る。われわれが援助を要請しなければならないなら断る」と回答していた。その挙げ句に日本の支援物資の中身に文句を付けるというのは、どういう神経か。

 非常事態委員会を取材したロシア人記者は、こう解説してくれた。
 「副首相らは、日本に点数を稼がれてはロシア政府のメンツがつぶれ、領土返還に賛成する世論が高まると恐れたのだ」

 こうした住民不在の基本姿勢では、住民の望む生活の復旧も進まず、むしろ反発は高まる一方だった。国後では「政府なんか当てになるもんか」と、地元テレビのカメラに向かって日の丸を振り、日本の援助を求める女性の姿が映っていた。

 「政府の復興策など全然信じていない。この島はいずれ無人島になるのさ」と、皮肉る人もいた。

 もちろん、日本からは官民を問わず、さまざまな支援物資や資金が送られた。にも関わらず、島民たちからは「援助物資を受け取っていない」という答えが相次いで寄せられた。

 「日本は、援助を求めた私の要請に何の返事もくれなかった。日本の記者に答える必要はない」。南クリール地区長のポキージン氏はムッとした調子で電話を切った。ポキージン氏は島の復興に必要な重機などを求めていたが、日本政府が「北方領土問題が未解決な中で本格的な援助はできない」と、人道援助に限定したことに反発したのだ。

 日本政府の言い分にも一理ある。ただ、その人道援助について、シコタン地区行政府のブイコフ副地区長は一定の感謝をしながら疑問を投げかけた。

 「私の住むクラボザボツコエでは、まだ暖房さえ入っていない。おもちゃの船や電動歯ブラシが何の役に立ちますか」
 はるばる日本から届いた人道援助物資だったが、その中には不要の品物が多かったからだ。
 「中には財布まであった。全く良いタイミングだ」と皮肉を交え、「日本は援助というより、同情を表すことだけが目的だったのではないか」と指摘していた。

 こうした双方のすれ違いはどこから来たのか。
 ブイコフ副地区長は重ねて指摘した。「残念ながら日本とは生活レベルが違いすぎる。日本人はいくら時間をかけても我々を理解できないだろう」と。

 一方、大半の島民も、地元新聞を読んで日本政府や道民、日本の企業から援助物資が届いたことは知っていた。国後島古釜布のナターリヤ・ラボチャーラさん(45歳)は「北海道でも地震があったのに、民間人も援助してくれた。領土問題とは無関係の心からの援助だと思う」と、感謝していた。

 しかし、一部施設を除いて援助物資が配られたという話が聞かれなかった。
 色丹島のタチアナ・ボグシュさん(48歳)は「何も受け取っていないわ。島民の役に立っているのかどうかもわからないわ。日本人が直接配ってくれたらよかったのに」と残念がっていた。

 それどころか、国後島のある男性(41歳)は「援助物資の毛布や灯油コンロ、バターが店で売られていた」と、あきれるような事実を証言してくれた。

 この証言に対し、南クリール地区政府のオフチニコフ副地区長は「品物の数より希望者の方が多いから、売って低所得者にお金を渡した」と反論した。しかし、住民からは「どうせいつもの横流しさ」と疑う声も聞かれた。

 当時の八木毅・外務省NIS(旧ソ連12カ国)支援室長も「直接住民が使ってくれるものと、期待していた。住民に渡して欲しいとあらためてロシア側に伝えたい」と、不快感を隠さなかった。

 はたして日本とロシアは、真に住民同士の思いが伝わるのだろうか。そんな思いを抱いて帰国したら、今度はサハリン北部で大地震が発生した。そして北部の町、ネフチェゴルスクが壊滅状態となった。再び、日本からもさまざまな援助物資は送られたのだが、北海道東方沖地震の教訓ははたして生かされたのだろうか。