★北緯50度

 なんの変哲も無い、幅6、7メートルほどの砂利道が続いていた。その少し先で、右なりにカーブし、どこへつながるのかは良く見えない。

 1938年1月1日、小樽出身の女優、岡田嘉子と演出家の杉本良吉がこの付近を超えて旧ソ連に亡命した時、周辺一帯は雪原だった。「国境地帯を見たい」という岡田のために、わざわざ敷香警察署長が馬そりを仕立てたという。2人は雪の中を旧日ソ国境付近まで進み、そしてソ連側へ駆け込んだ。期待を胸に。

 しかし、2人を待っていたのは悲惨な現実だった。2人は亡命者としてではなく、なんとスパイとして取り調べを受けるハメとなった。旧ソ連の舞台演出家メイエルホリドが日本のスパイとして摘発された冤罪事件で、杉本は拷問の末に「メイエルホリドがスパイだ」とするニセ証言を強いられた末に、銃殺された。杉本は、メイエルホリドに師事したいと夢を描いていたようだが、むしろ当時の政権にとって反抗的なメイエルホリドを葬るために利用されたようだ。



 そして岡田も「スパイである」とを認めてしまった。彼女は、各地の収容所生活を経てその後、ようやく名誉回復が認められた。日本への帰国も果たし、天寿をまっとうしたが、収容所時代の生活については多くを語らなかったという。

 それから56年後の94年夏、取材に訪れた日、白樺の枝には青々とした葉が繁っていた。恋の逃避行と歌われたその旧国境付近はただ穏やかに時間が流れていた。遠い夏の日に、両軍の兵士が国境をめぐって血で血を洗う攻防戦を繰り広げ、数千人もの死者が出たとは、とても思えないほどだ。

 道路脇には、旧ソ連がサハリンを「解放」したことを示す記念碑=写真=がひっそりと立っていた。「この付近では、日本兵が多数戦死したはず」だと思うと、神妙な気持ちになった。
 さらにその奥の林の中。かつて道があったとは思えないような湿地のやぶを掻き分け、50メートルほども進むと、目的のものがあった。

 日露戦争後、小樽の旧郵船海陸小樽支店で開かれた国境会議の結果、定められた旧国境。その位置を示す標石は、間宮海峡からオホーツク海側にかけて、4つあった。そのうちの1つの土台がそれだ。

 国立サハリン州博物館の館長から見せてもらった写真では、御影石の下にコンクリート製らしい土台が据えられ、その周辺には数メートル四方の柵が設けられていた。当事は、周辺の樹木がきれいに取り払われ、それこそ間宮海峡からオホーツク海まで一筋の道のようになっていたようだ。写真では、その周辺に明治時代の軍服を着たいかめしい軍人らしい人物が数人、たたずんでいた。

 しかし、私の目の前にある遺跡には、もはや往時の面影はない。ただの石塊のようだった。ユジノサハリンスクから道無き道を縫うようにして車で北上、敷香を経て1泊2日でたどり着いた現地は、50年の月日を物語る荒れ果てた姿をさらしていた。

 私をここまで案内してくれたのは、旧国境に近い町、ピロマイスクの住む映写技師、アルカージ・ブリニョーフさん(当時37歳)=写真左=というアマチュアの郷土史家。サハリン州博物館から紹介され、ようやく連絡が取れた。

 彼は、国境について研究を始めた1990年7月、一部は欠けているもののほぼ原型のまま林の中にうもれるように佇んでいた標石を確認した。

 ブリニョーフさんが撮影した写真を見せてもらった。大日本帝国の文字が刻まれ、菊の紋章がくっきりと浮かんでいた。裏側は、ロシアを象徴する鷲の紋章が刻まれていた。ただ、左肩の部分が削り取られたようになっていた。

 「標石の傷は、ハンターがいたずらで撃った跡だ」という。ただ、私の勝手な解釈だが、戦争中の流れ弾があたったように思えてならなかった。狙って撃ったのなら、もっと中央部に弾痕があっても良いはずだし、2度3度と撃つのではと思った。

 境界標石は、全部で4基設置された。第1号標石がオホーツク海側の遠内海岸近くに、第2号はポロナイスク(幌内)川右岸付近に、第3号標石は国境をまたぐ街道の付近、そして第4号は間宮海峡側のボズウラシチェニェ(安別)にそれぞれ据えられた。花崗岩製で、高さ約60センチ、横約60センチ、幅25センチほどの将棋の駒形をしており、ブリニョーフさんが見たのは、第2号だった。

 ブリニューフさんは、国境警備隊員だった父親の影響で、日ロの国境問題に関心をもった。

 「ここが昔、国境だったなんてとても思えませんね」
 そう問いかけた私に対して、彼はこう答えた。
 「世界の人間に変わりは無いはず。国境とはなんだろう…。日ロ双方が協力して緯度を観測して、共同の作業で完成したこの国境の持つ意味を、色々な人に考えてもらいたいなぁ」

 旧国境標石については、その後、後任のI記者や根室の市民団体「根室・サハリン文化交流実行委員会(山本連治郎実行委員長)らの働きで、さまざまな事実が明らかになった。そして、写真の第2号標石が97年9月、根室へ運ばれ、保存されるというドラマチックな展開が繰り広げられた。

 スミルヌイフ市(気屯)在住の会社社長、アレクサンドル・ツイガノフさん(36歳)が個人的に保管していたのを、ロシア側の了解も取り付けて「返還」されたのだ。

 また、私が台座のみを確認した第3号標石は、1949年にサハリン州郷土博物館に移されて展示されていると思われていたが、実はこれも複製だとわかり、ロシア側が驚く一幕もあった。結局、第1号、第4号標石とともに解体されたのかどうか、いずれにせよ行方がわからないままとなっている。

 根室へ運ばれた国境標石は、各方面の反響を呼び、さまざまな関連情報も北海道新聞に寄せられた。日ロ間の領土をめぐる物証であり、歴史的文化財とも言えるだけに、北方領土問題に直面している根室で「余生」を送るとは、数奇な運命をたどったものだ。