★スターリンの写真

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 ユジノの事務所にある日、旧KGBの流れを汲む連邦防諜局(その後、組織変更があり、二つの組織に分かれて、名称も変わっている)のG氏が訪ねてきた。

 KGBは、対外的なスパイ活動と国内でのスパイ取り締まり、公安活動が主な任務だった。防諜局も基本的には、ほぼ同じ任務を引き継いでいた。ソ連が崩壊して、時代が変わったとはいえ、その名が示すとおり、開かれた組織という訳にはいかない。外側のドアを開けてロビーに入ると、厳しい表情の衛視が庁舎奥への入り口に詰めている。

 西側の取材記者が訪ねて行っても当然、1階ロビー横の会議室のような所へ通されて、庁舎の奥へはまず入れてもらえない。

 その会議室のような部屋自体、KGBの前身、GPUの創立者であるジェルジェンスキーの肖像が今も旧ソ連時代に同様に掲げられていた。机が3つT字型に並び、「まるで取調室のようだな」と、思った。

 たった1度、モスクワから当時のステパーシン連邦防諜局長官がユジノを訪れた時に、G氏の配慮で記者会見の席に、西側の記者で唯一招かれたことがあった。後にも先にもサハリン州の防諜局の奥深くへ入った西側の記者は、私以外にはおそらくいないはずだ。

 会見場は、2階の会議室。これがすごい仕掛け部屋のようなところだった。秘書室のような部屋へ入ると、右側の壁が書類棚のようになっていた。なんとその扉の1つが奥の会議室の入り口なのだ。知らない人間が来ても奥に会議室があることはわかりようがない。

 「まるで007の世界だな」と思った。そしてロシアの役所の建物には多いのだが、扉は二重。壁の厚さは50センチはありそうだ。中の話が漏れにくいという点では、この組織に最も相応しい造りだ。

 さて、前置きが長くなったが、そのG氏がわざわざ訪ねてきてくれたのは、以前から協力を要請していたシベリア抑留に関する情報提供だった。それも「こんな話があったとは…」と驚くような。

 G氏から手渡されたのは、粗末なフォークと新聞=写真=だった。
 「おやっ」と、思った。フォークはともかく新聞の題字に目を奪われた。そこにはまぎれもなく、「新生命」という文字が記されていた。


 「新生命」は、極東の収容所で配布されていた日本兵向けの新聞だ。日本へ持ち帰ることは認められておらず、実物はほとんどないはずだった。私もハバロフスクの軍事博物館で展示されていたのを見たのが唯一の経験だ。

 G氏はトップ記事のスターリンの写真に穴があいているのを指さし、「このフォークで突き刺したのです」という。
 「何を言いたいのだろう」。いぶかる私に、G氏はニヤッと笑いながら、軍法会議の資料を示してようやく本来の目的を説明してくれた。

 それは1945年12月31日のできごとだった。

 軍法会議の資料によると、岩見沢出身の小浜正直さん(当時22歳)が、「こいつのせいで俺たちがこんな目にあっているんだ」と言って、フォークで新生命に掲載されたスターリンの写真を突き刺したとして、断罪された。判決文は、「小浜は、党とソ連国家の指導者に対し、反革命的な行為を起こした。ロシア共和国刑法58条に基づき有罪、懲役10年」とかかれてあった。

 小浜さんは、ソ連兵でさえ恐れた極寒のマガダン地方へ送られ、伐採などの重労働を課せられた。帰国できたのは、1955年だった。「新聞の写真にいたずらしただけでこんな目に遭うのか」。信じられない話だが、それが収容所の、そして旧ソ連の実態だったのだろう。

 資料の中には、稚拙なカタカナで書かれた自供の調書もあった。証拠の新聞といい、フォークといい、こうした当時の過酷な実状を物語る資料が、戦後50年を経てでてくるとは予想もしなかっただけに思わずうなった。

 しかも、その後、同僚の取材で小浜さんは岩見沢に健在であることがわかり、お話を伺うことができた。その証言は、さらに驚くものだった。

 「北千島の幌筵島に収用されていた大晦日の晩、ソ連の兵隊が『新生命』を5、6部持ってきた。ある人が軍用の携帯燃料を蒸留して酒をつくったので、それを仲間と飲みながら夕食をとった。新聞の写真を見るうち、怒りがこみ上げ、酔った勢いで箸(はし)を突き刺した。ソ連兵に見つかり、誰がやったのかと問われて正直に名乗り出た。ろくに取り調べも受けず、軍法会議の時には、読めないロシア語の書類に署名させられた」

 小浜さんは、「フォークなど当時はなかった」といい、証拠品とされる新聞についても「私がやったのはこの新聞ではない」と断言した。さらに自供調書とされる稚拙なカタカナの文章についても、「署名は確かに私の字だが、こんな「自供」を書いた覚えはない。ロシア人通訳が書いたのでは」と言う。

 軍法会議そのものが、真摯(しんし)なものとはいえなかったのは疑いようがない。

 そしてこのような形ででっち上げられた「反革命」罪の咎(とが)人は、日本兵ばかりではない。ソ連人民にも数多くの犠牲者がでた。今日、ロシア政府は、その「負の遺産」を清算するために、無実の罪を着せられた多数の人々の名誉回復に取り組んでいる。防諜局のG氏が情報提供してくれた背景には、そういうロシア政府の姿を日本にアピールする狙いがあったのだろう。これも日本、とりわけ北海道に対するひとつのサインだと見た。