★我慢

 ある時、ユジノサハリンスク空港で、小型機の搭乗口になにやら太いホースのようなものが突っ込まれていた。蛇腹状で直径2、30センチはあろうかという太さだ。ゴーともボーともいうようなうなりが聞こえる。

 「なんだこれは…」と、思う間にそのホースのようなものは外され、乗客が機内へと誘導された。

 後でわかったのだが、これは温風を機内に吹き込む装置だった。どうも、ロシアの小型機の場合、飛行中の暖房を確保するシステムが装備されていないか、あってもパワーが弱いらしい。

 いつもの習慣で、機内に入るとダウンパーカーを脱いでゆったりと座席に腰を落ち着かせた。しかし、まわりのロシア人たちは、ただでさえ狭いシートに座りながら一向にコートを脱ぐ気配を見せない。毛皮のシャープカ(帽子)も取らない。あろうことかスチュアルデッサ(スチュワーデス)さえコートを着込んだまま、乗客のシートベルトをチェックしている。

 「楽にしたら良いのに…」

 そう思っていたら、まもなく理由が分かってきた。足下から徐々に冷えがこみ上げてきた。

 「こりゃたまらん」  脱いだダウンパーカーを再び着込み、窓際の席を離れた。  「そういえば、ロシアの大型機でもコートを着込んだままの人がいたなぁ」

 大型機なら空調がないはずは無いのだが、ロシア人の友人に尋ねると「航空会社も経営が大変だから、燃料がもったいなくて、駐機中は暖房を入れないさ」という。

 それはともかくとして、小型機とはいえ北国、ロシアの飛行機なのだから空調装置がないなんて。「冬の空の旅は大変なのに」といえば、「ロシア人は我慢強いからね」と来た。こんな時、日本なら乗客がカンカンになるのでは。

          ★ユジノサハリンスク

 「どうしてユジノサハリンスクじゃ今でもレーニン像が残っているんだい?」

 モスクワから出張してきた男が、土地っ子に尋ねた。

 首都では、とっくにレーニンの値打ちなど無くなっている。いまどきレーニン像が立ちはだかっているのは極東くらいだ。

 「それはね、向かいの市役所の連中がちゃんと働いているかどうか見張らせるためさ」

                

 ユジノで聞いたアネクドート(小話)だ。  鉄道のユジノ駅前は、広々とした公園になっている。そのほぼ中央にレーニンの銅像がすっくとそびえている。

 3階建てのビルくらいありそうだ。極東で一番大きいと聞いた。

 ソ連崩壊後、あちこちのレーニン像が解体されたり、落書きをされたりしたが、ユジノでは落書きすらなかった。それどころかいまだに新婚カップルが、レーニン像の前で記念撮影する姿を見かけるし、記念写真屋も時々営業している。

 話がわき道にそれるが、新婚カップルは飾り付けた乗用車で市内を走り回る。空き缶をひもでくくりつけ、カラカラと派手な音を上げながら走る姿は少なくともロシアの伝統的スタイルとは思えないのだが、やはりハリウッド映画の影響だろうか。

 さて、ユジノが特に保守的(社会主義的)な町という気はしなかった。しかし、ユジノの人たちには、どうも市民が決起して政権を打倒したモスクワのような熱い思いは感じられない。気がついたらソ連が消えていたというところなのだろう。

 心理的に社会主義=レーニンとはとっくに縁を切っているのは確かだろう。とはいえ、民主主義の洗礼を受けたというムードは感じない。あるいは朴訥なサハリンの人々の気質を反映しているのだろうか。

 市役所は、そのレーニン像と道路を挟んだ向かい側にある。外壁は一応それなりに補修されていたが、実態は相当古い建物という感じだ。94年当時の市長は、ファルフトジノフ氏。つまり現サハリン州知事だ。

 もちろん官選の市長だった。ソ連崩壊後、ようやく民主的な選挙制度が確立され、96年に選挙を受けて州知事に当選した。北海道では有名人だった「改革派」(?)のフョードル元知事の退任後、ポストを引き継いだクラスノヤーロフ前知事もモスクワにポストを見つけて、ファルフトジノフ氏に後を託した。

 一方、地元ユジノの市民が政治家に向ける目は厳しい。生活は豊かにならず、経済も進展しない。政治そのものへの不信が高まっている。

 政治家自体にも、民衆の不振を招いている面がある。特にクラスノヤーロフ前知事は、その任期中ほとんど地元に姿を見せなかった。地元紙は「猟官運動に夢中のため、一年の大半は地元にいない。どこの知事だかわからない」とまで皮肉っていた。

 どうもロシアの政治家は、日本以上に中央志向が強いようだ。そして世話になった地元のことなどさっぱりと忘れ去ったかのようにみえる

 やはり選挙で、民意を反映した住民の代表を選ぶべきだが、州議会の選挙もユジノは投票率が低い。「暮らしていくのに精一杯で、政治どころではない」「政治家なんてどいつもこいつも同じさ」といった冷ややかな声が聞こえていた。

 これでは一握りの権力者とそれにつながる官僚が、独善的な行政を展開しても止めようがない。この流れを断ち切る勢力が地元には育っていない。生きていくのがやっとで、一部のプロ的な政治家を除くと政治の世界に首を突っ込む余裕もないようだ。

 ところで、州政府の庁舎は、駅前から一直線に伸びたコムニスチーチェスキー(共産主義者)通りに面していて、陸軍の向かい側に位置している。以前から庁舎に入るときは、コートを入り口で預けて、衛視に身分証明を示して行き先を告げなければならなかった。

 ある日突然管理が厳しくなった。庁舎裏側の別棟で身分証明書を提示して、入館証をもらうようになってしまった。この別棟、内部が繋がっていないからややこしい。

 「州政府へのテロが電話で予告された」というのが、管理強化の言い分だった。「おいおい、チェチェン周辺やモスクワじゃあるまいし、どこに紛争の火種があるんだよ」と言っても始まらない。

 おかげで入館証をもらうために長い列ができたことは言うまでもない。そして、ロシア政府発行の記者証明書があるにもかかわらず、こっちまでとばっちりで列に並ぶ羽目になった。

 サハリンでは、モスクワのお墨付きより州知事の決定の方が優先されるようだ。それにしても、北方領土沖の地震による津波被害などの発表があると聞いて駆けつけた時だっただけにすっかり頭に来た。

 「こないだまでは記者証で入れたじゃないか。州政府から会見の案内があったのに入館証をもらってこいとはどういうことだ」

 さすがに切れた。  「この記者証は、ロシア最高会議でさえ傍聴できるんだ。サハリン州政府は、最高会議より偉いとでもいうのか。ロシア外務省に不当な扱いを受けたと言いつけるぞ」と言いたい放題をいったが、助手のジェーニャは「言っても無駄ですよ」と匙をなげていた。

 確かに、末端の衛視に何を言ってもむだ。道理や正義を説いても始まらない。上官や上司の命令には絶対服従するよう長年教育されてきたからだ。直属の上司が「ダー(いいぞ)」と言わない限りだめなのだ。

 後は、「入館証をもらうための整理券が必要になって、その整理券をもらうための入館証が必要になるんじゃないか」と嫌みを言うのが関の山。とにかく非効率的で、形式主義的だが、郷に入っては郷に従うしかない。日本人はせっかちだから、これがけっこう辛いのだが、我慢も生き残る知恵のひとつなのだ。

                 

 それにしても、道庁で爆破事件が起きたときも一定の警戒措置が取られたが、一般大衆が公共施設へ入館するのに身分証明書を提示しなければならないというのは、何とも困ったものだ。

 日本の中央省庁も身分証明の提示は求めるが、成田空港問題でテロの的とされる運輸省ですら名刺を見せれば入れる。国会以外で専用の入館証を必要とするところはない。

 ロシアでは官庁という官庁がほとんど似たようなシステム。特に内務局や防諜(ぼうちょう)局のような官庁は徹底していた。そして民間企業でも、入り口に警備員がいてどこへ行くのか、何をしに行くのか尋ねるのは珍しくない。さすがに商店、食堂のたぐいではそんなことはなかったが