★オイ

新旧駐在員と助手のジェーニャ 「アロー(もしもし)…エータ、タムーラ(こちらは田村です)」  

 「オイ(えっ)タムーラサン!?」  「ダー!ア ブィ ジェーニャ?(そうだ。君はジェーニヤ君か)」  「チョットマッテクダサイ」

 しばらく沈黙が流れて、やっと懐かしい声を聞いた。

  「Kです。田村さん今どちらですか」  

 「****ホテルだよ。いくら待っても迎えに来てくれないからタクシーを拾ってきたんだ」

 「えっ、ユジノ空港ではハバロからの便は飛んできていないというので、こちらはオフィスで待機していたのですよ」

 「いやぁ、飛行機は飛んださ。だからユジノにいるんじゃないか。まぁもうそれは良いよ。とにかく疲れたけど、無事着いたから」

 「じゃぁ今からホテルへ迎えに行きます」

 やっとの思いでホテルへ着いた俺は、これまた試行錯誤の末にようやくユジノの事務所へ電話をかけることができた。

 実はこの電話1本のために、またまた恥をかいてしまった。ホテルには、米ロ合弁の国際電話会社「サハリンテレコム」のオフィスがある。そこで電話をかけたいと話したら、こういわれたのだ。

 「市内通話はこっちじゃないわ。そこの公衆電話でかけて」
 「小銭を持ち合わせていないんだ」
 「市内は、無料でしょ。知らないの!」

 まっ、とにかくK記者は、2人のスタッフと駆けつけてくれた。

 スラブ系ロシア人の助手、ジェーニヤ君は当時24歳。モスクワの軍事大学を卒業後、陸軍で日本関係の情報将校をしていたが、軍の将来に見切りを付け、道新のスタッフに応募してきた。

 日本語は大学で憶えたといい、モスクワ大会のチャンピオンにもなった柔道青年。ジーパンとジーンズのジャンバーを愛用しており、彼には軍服よりよりこっちの方が似合っていた。

 もう1人のスタッフは、運転手のユーラ君。サハリンではひと方ならぬお世話になった残留韓国人のジャーナリスト、リ・ハンピョウ氏夫妻の3男。当時、30歳だったと思ったが、日本語も勉強中のまじめな人だった。

 2人は、結果的に新しいボスを空港にも迎えにいかずほったらかしになってしまったことに恐縮していた。カチコチになって、いつまでも気を付けの姿勢を解かずにいた。

 その時、こちらは疲れのあまり怒りもどこかに置き忘れた状態。「気にしなくて良いよ。君たちに会えて本当によかった」と、しみじみ言ったことだけを憶えている。

             ★有効期限切れ

ユジノ市街地図 ユジノの事務所は、鉄道の駅からまっすぐのコムニスチーチェスキー(共産主義者)通りに面し、サハリン州政府庁舎のほぼ斜め向かい。ホテルから歩いて15分ほどのところにある。

 合弁企業の建てた6階建て、ビジネスセンタービル「サヒンツェントル(サヒンセンター)」の4階にある。広さにして20平方bくらいだろうか。衛星回線の電話と国内電話、衛星放送の入るテレビ、コピー機、さらに冷蔵庫、冷凍庫まであり、泥棒の喜びそうなもので溢れていた。

 サヒンツェントル自体が、サハリン大陸棚の石油天然ガス開発関係会社を当て込んで建てられた。マラソン・マグダーモット・三菱商事・モービル・シェルのいわゆる4MSをはじめ、エクソンや日本のSODECO(サハリン石油天然ガス開発協力機構)、伊藤忠、三井物産、マルハなど層々たる企業が事務所を構えている。

 事実上、道の出張所となっている北海道物産貿易振興会の事務所が入ったのは、ここの2階だ。最近、正式に道の事務所という位置づけになった。某大学の先生が、このビルをマフィアの巣のように自分の著書で書いていたが、実態はちょっと違う。もっとも、マフィアにも色々あるのだが。

 ビジネスビルである以上、当然、警備が問題になる。出勤すると、まず警備事務所へ行って台帳にサインし、警報システムを解除してもらったうえで預けている鍵を受け取る。帰りも警備事務所でサインして警報システムを入れてもらい、鍵を預ける。そして入り口では、ガス銃を持ったガードマンがプロプーストク(身分証明)をチェックしている。

 顔を覚えてもらえると良いのだが、向こうも人が入れ替わったりする。あるいはこっちの人相がよほど悪く見えるのか、何度も「プロプーストク?」と、チェックを受けた。このプロプーストクがまたちょっとした手帳のように厚い。がさばって邪魔なのだが、持って歩かないわけにもいかない。

 ここのビル内の事務所に用事がある場合は、受け付けで記帳して相手先でサインをもらって帰る規則になっている。面倒と言えば面倒だが、今のロシアではこれも止むを得ない。

 それでも泥棒は現われる。ビル内に事務所を構えているパソコンの業者が、室内の品物をごっそり持っていかれたことがあった。その時、サヒンツェントル側はドアの鍵を警備室に預けて帰らなかったことを理由に、「身内の犯行の可能性もある」として、補償義務はないとつっぱねた。確かに内部犯行や詐欺のようなケースも想定されるだけに、手続きを踏んでもらえなくては、サヒンツェントル側も対処の仕様が無いという言い分だ。

 ところで、うちの事務所の隣にはNHKが入っていた。NHKの場合、札幌放送局の局員が半年交代で勤務する形になっており、俺は在任中3人の記者とお付き合いした。その1人、I君は奥さんもNHKのアナウンサーで、札幌放送局でおなじみのY子さん。2人目は当時衆院議員のご子息のN君、そして3人目は函館放送局から派遣されたD君だった。

 なかでも印象に残っているのは、I君。  ちょっと時間が空くと、うちの事務所のドアを覗くように開けて「今、良いですか、お茶にしませんか」と訪ねてきてくれた。  彼は、海路、コルサコフ(大泊)に入港した途端、「ロシアの壁」にぶち当たった経験者で、その点は大いに親近感を持たざる得ない。

イラスト 彼は、入港後、入国審査でビザを差し出すと係官からびっくりするようなことを言われた。

 「このビザは期限が切れている」
 「そんなばかな。発行してもらったばかりなのに…」

 驚くのも無理はないが、驚くようなことがあっても無理ではないのがロシアのすごいところだ。なんと、ビザの有効期限を示す期間が間違っていた。「いつまでビザが有効か」を示す欄に発行日の日付が記入されていたのだ。これでは発行即無効となってしまう。  当然、これはロシア側の事務手続きミスだ。I君は、全くの被害者だ。

 さぁ困った。問題の深刻さは、わがケースの比ではない。国境警備隊の入国審査官は旧ソ連時代の面影を引きずるゴリゴリの官僚主義者だった。日本の役人も融通の利かない点は負けず劣らずだが、こちらは役目上ではなく、心底イデオロギーとして官僚主義を貫いている気がする。

 「このビザは無効だ。船を降りてはならない」  「そんなぁ、ユジノへ赴任しなければならないのに…」  「だめなものはだめだ。ビザを取り直してこい」

 冗談じゃないと、彼はまっさおになった。取り直しにいくどころか、彼を乗せてきた船はほどなく出港してどこへ行くかも分からないのだ。

 しかし、間一髪、救いの手は差し伸べられた。地獄に仏とはこのことだろう。その船のロシア人船長が気の毒に思い、身元引き受け人になってくれたのだ。ビザは別途取得することにし、彼はようやくサハリンの土を踏むことができた。どんなに心細かったか、想像が付く。全く同情を禁じ得ない。

                      

 ところで、サハリン在勤中に一時帰国した際のことだった。  出国手続きを終え、待合室で搭乗手続きを待っていた。  待合室に通じる通路の脇には、国境警備隊の出入国審査官がキオスクを一回り小さくしたようなボックスに収まり、パスポートやビザをチェックしていた。中から金属の棒を突きだし、許可が下りなければ先へ進めないように通路をふさいでいる。中に入っている審査官は2人。美人だが、厳しい表情のロシア女性。

 「お嬢さんたち、愛想良くしてくれとは言わないが、なにも怖い顔してにらまなくてもいいだろうに」と、だれもが思うはず。出入国の度に、疲れる思いをしたのはひとりやふたりじゃないだろう。

 その時だ。中の女性が受話器を取り上げて何か言ったかと思ったら、男性の係官がどやどやとやってきた。きょとんとする日本人の若者は、腕を捕まれるようにして奥の部屋へ引き戻されていった。その若者は、ある全国紙の記者だった。

 「どうしたのかなぁ」と思ってはみたが、どうなるものでもない。まもなく、搭乗手続きが始まったが、結局、気の毒にも彼は同じ便に乗れなかった。

 「いやぁ国境警備隊にがっつり絞られましたよ」

 彼を受け入れた旅行代理店のユジノ側スタッフは、後になって事情を教えてくれた。

 彼は取材の予定が伸びて、滞在を延長した。そこまではどうってことはない。問題はビザの期限が切れていた点だ。これは下手をするとスパイ行為の容疑を掛けられる恐れがある。スターリン時代ならば、下手をするとルビヤンカ(KGB)で銃殺になってたかもしれない。さすがに今日では、そんなことにはならないが、少なからず面倒なことにはなる。

 結局、受け入れ先となったユジノの旅行代理店側に管理責任があるということで決着。彼はビザの延長手続きのためさらに滞在を延ばしてようやく帰国できたという。

       

 社会主義が崩壊したとはいえ、社会の隅々にまでソ連の残滓(ざんし)は染みついている。外国人に国を開いたといっても、そう簡単に世の中は変わるものではない。

 もっとも日本だって外国人の出入国に関する扱いはけっこう厳しい物がある。不法就労・不法滞在として摘発されるケースが後を絶たないからだ。それに、ロシア人の入国には冷戦時代並みの厳しい条件がつきまとう。ビザの発行は遅いし、やたらと条件が付く。どっちが民主的な国か分からなくなるほどだ。

 むしろ日本人が渡航するのにビザを必要としないアメリカのようなケースは例外らしい。海外に行くと言うことは、そういうものだと考えた方が良いようだ。気楽に海外旅行できる時代になったとはいえ、国際社会のルールは厳然としてある。

 さて、話を戻してI君だが、彼は大抵の日本人が恐がって歩かない夜道も平気で歩きまわり、朝まで客人をもてなすタフさも見せていた。俺もサハリンの社会探訪にお付き合いさせていただいたが、その後、東京へと転勤になり、しばしばテレビ画面で活躍する姿を拝見した。今は再び札幌へ戻ったはずだが、サハリンでたくましく仕事をこなしたのだから「どこでも大丈夫」。

 当事、HBCもユジノにTBS系列局を代表する形で派遣されており、地元サハリンテレビの一角で、S君はオフィスを構えていた。

 彼もロシアという取材環境の違いに戸惑ったのはいうまでもない。

 普通、日本の警察担当記者は事件・事故の発生を確認するため、警戒電話と称して所管の警察、消防署、海上保安部などに電話を入れたり、直接足を運ぶ。

 これを朝昼晩と繰り返すのだが、ロシアのマスコミ、特にサハリンではそんなことはしないようだ。しつこく電話するのに辟易とした民警など治安当局は、ついに「うるさい」と怒ってしまった。記者クラブという制度もなく、記者発表することがまれな状態では広報サービスなど期待すべくもない。

 S君はその後、ウラジオストクへ移動したが、後半は結婚したばかりの奥さんをユジノに伴い、新生活を営みながら取材に励んでいた。

 実は、一度新婚家庭にお招きを受けたのだが、「よく来る気になりましたね」などと野暮なことを奥さんに聞いてしまった。まったく余計なお世話に決まっている。

 ただ、世界を股に駆ける日本の商社も、サハリンは家族を連れて行っては行けない地域に指定している。モスクワが家族連れで行かねばならない地域に指定されているのとは逆だ。2人は、その後駐在事務所がウラジオストクへ移ったため、ユジノを離れたが、夫婦でロシア極東に駐在した西側ジャーナリストの第1号だったはずだ。

 このほか前述の伊藤忠、三井物産、マルハなどの駐在員さんなど30人ほどの日本人がビジネスチャンスを求めてユジノに常駐しており、さらに欧米人や時折やってくる日本人観光客も含めると、ユジノはちょっとした国際都市だ。

 そういえば石油メジャー、エクソンのユジノ駐在員の名前は、マイケル・ジャクソン氏。かのスーパースターと同姓同名。名刺をもらってびっくりしたが、これは序の口。本当に驚いたのは、3週間に1度、チャーター便が彼の交代要員を乗せてお迎えに来ることの方だった。さすがはメジャーだ。スケールが違う。