★待てどくらせど
ユジノサハリンスク空港へ到着早々とんだ大恥をさらした後、さて、荷物はなんとか確保したが、今度は迎えが見あたらない。前任ユジノ駐在記者、K君が迎えに来てくれるというので、空港から市街までの道筋や交通機関の利用法などは事前に勉強していなかった。頼り切っていたから、さぁどうしたらよいのかさっぱりわからない。
そこが甘かった。 人に尋ねようにも、先ほどの会話トラブルで、すっかり自信喪失になり、何をどう聞いて良いのかも分からないありさまになっていた。
もちろん、K君はユジノサハリンスク空港に「ハバロフスクからの便は飛ぶのか?何時に着くのか」と、何度も問い合わせてくれていたのだ。しかし、空港の担当者は「ハバロフスクの便は天候が悪くてまだ離陸していない」とつれない返事。当然、飛んでこない便を迎えに、はるばる空港まで行く人はいない。
実は俺が搭乗した便は、モスクワからハバロフスクを経てユジノへ向かう便だったのだが、あろうことか空港関係者は、その便は「モスクワ便」だから該当する便ではないと勝手に思いこんだらしい。
ただし、「らしい」というのは、あくまで日ロ友好を願う善意の解釈だ。
一般論として言えば、杓子定規で、官僚的で、顧客サービスを考えぬ空港職員のおかげで、善良な乗客が右往左往するはめに陥ったことになる。日本なら、「とんでもない」「ふざけるな」と乗客が怒りだして当たり前のところだ。それでもここでは文句を言ったところで、らちがあかないことをほどなく知ることになる。
いずれにせよ、K君たちはオフィスで待機せざる得ず、こっちは空港で待ちぼうけを食うはめとなった。
さて、公衆電話をかけようかと、思ったが、これがまずいことに、ロシアに入国して以来、ルーブルに両替していなかった。ルーブルは国外に持ち出せず、両替はロシア国内でしかできない。ハバロフスクでは、H君の世話になってしまい、ドルをルーブルに両替してなかった。公衆電話を見つけてもかけようがない。両替所らしきところも見あたらない。一難去ってまた一難。またまた困った。
実は当時、あまりに急激なインフレのためロシアの硬貨・コペイカは既に用を成さなくなっていた。公衆電話を改良しようにも電話局に改修資金がないため、市内電話は事実上無料になっていた(99年になってようやく改修されたと聞いている)。
俺の観察眼がもう少しまともだったら、ロシアの人たちが硬貨を使わずに電話しているのに気づいたはずなのに。あぁわが脳味噌が粕漬けでさえなかったなら。
結局、しばらく我慢して迎えを待ったが、さっぱりこない。大きな荷物を持ってうろうろしている外国人など、ギャングの目から見たら良いカモなのではと、段々不安が募る。心細いときには、周りの誰もが人相の悪い人に見えてくる。気持ちが悪い方、悪い方へと傾くようだ。
次第に日は傾きかけ、猛烈に腹も減ってきた。ついに覚悟を決めた。 「もう限界だ。タクシーに乗ろう」
どうってことの無い決断だ。しかし、そんな事に決断を要する背景があった。訪ロ前に初代サハリン駐在記者のT先輩から、繰り返し脅されていた。
「タクシーには、けっして1人で乗るな。必ずロシア人の知人と一緒に乗り、先に自分の目的地まで案内してもらえ」
というのは、ロシアでは混乱につけ込んで、白タクが横行し、法外な料金を請求したり、寂しい郊外へ連れ出されてホールドアップということが少なくない−と、アドバイスされていたのだ。
といってもサハリンに到着したばかり。どれが正規のタクシーか白タクかは、さっぱり判断がつかなかった。そもそも、タクシーの行灯が付いた車などまったく無かった。「さぁどうする」。ここは、新聞記者として長年人間を見続ける仕事をしてきた自分の観察眼に頼るしかない。
空港前に並んで客待ちしている車を見渡し、「なるべく善良そうな運転手はいないかなぁ」と、1人の運転手を選んだ。そしてこう声をかけた。
「スコーリカ ド ガスツィーニッツア ****」(ホテル****までいくら)。 さぁそれからの、この運転手との駆け引き(?)に全精力を注いだ。 「着いたばかりで両替をしていないが、20ドルでいいかい」 悪いはずはない。こっちの言い値は、実は向こうの言っている料金の4倍以上。なんのことはない、着いたばかりで為替レートがわからなかったからだ。空港からユジノ市街まで車で2、30分と聞いていたので、日本ならせいぜい2千円もあればと単純に思ったのだ。
だが、もう少し落ち着いていたならば、いくら「悪性インフレ」のロシアでも数日で為替レートが何倍も変わるはずもない。もう少しまともな料金で済んだものを−と、後悔しても後の祭り。
「思わぬカモが日本からやってきた」。そう思ったかもしれない(失礼)運転手は、クリスマスか誕生日のために取って置いたような最高の笑顔を浮かべてくれた。そしてぱっと車を降りると、馬鹿でかいスーツケースを軽々と持ち上げ、後ろのトランクに積み込んだ。次いで、にこやかに後部座席のドアを開けてくれた。
「パジャールスタ(どうぞ)」
ロシアでこんな歓迎を受けたのは、後にも先にもこれっきりだったかもしれない。それくらい愛想はよかった。
しかし、乗ってみて初めて気づいた。車は、相当年期の入ったある日本車。はっきりいって、これが営業車かと思うようなおんぼろぶりだ。なんと、助手席にはシートも無い。そしてあな恐ろしや…。料金メーターが無いのだ。
「やっぱり白タクか。しかし、車体にはタクシーを示す市松模様が入っていた…。うーん、どう考えたら良いのやら」
実は、物価が毎日上昇するロシアでは、公衆電話同様、料金の改定されないメーターなどなんの役にもたたないのだった。なまじそんなものがあったら、タクシー業者側は逆に毎日、損を重ねながら走らなければならなくなる。
さて、いかに機嫌良く、そして安全に、ホテルまで案内してもらうか。日本出国前に脅かされすぎてびびっていたため、そればかりを考えていた。あとはもう、まるでホステスの機嫌を取ろうとして媚びへつらう「オヤジ」のようだった。
「マルボロはどうだい。記念に上げるよ」
ソ連が崩壊する直前、マルボロ1箱でタクシー料金がただになったと聞いたことがある。外貨商店でしか外国製たばこは手に入らず、庶民の手に届く品物ではなかったからだ。ここは気前良く、2箱進呈した。
でも、後で知ったのだが、そのころはもうアメリカのたばこなど、町のどこででも売っており、以前ほど貴重品扱いになっているわけでもなかった。まったくもって、知らないということは恐ろしいというか、恥ずかしいというか。世の中は常に変わっているものだ。道理で運転手は、ニコリと笑って「スパシーバ」とは言ってくれたものの、感謝感激というほどではなかった。
「シャフョール(運転手)は長くやっているのかい」 「いや三年前までは漁師だったんだ。でも儲からなくてね」 「家族はいるの?うちは息子と娘がいて、まだ小さいんだけど…」 「娘がいるよ。アーニャっていうんだ」
同じ親父同士という親近感を感じさせて、突然妙な下心が浮かんでこないようにと一生懸命計算したつもりだった。あぁ我ながら情けないったらありゃしない。
こんなロシア語会話初級講座を繰り返しながら、さりげなく車窓を流れる景色に神経を張り詰めていた。
どこへ行くのだろう?本当にユジノ市内へ向かっているんだろうか。そんな思いが頭を離れない。
しかし、すべてが杞憂に過ぎなかった。
タクシーは、30分ほど走ると市街地に入り、無事落ち着き先のSホテルへ到着した。そして運転手は「馬鹿な金持ちの日本人だ」などというような表情はこれっぽっちも見せず、「今日はいいお客に巡り合った。なんて気前の良い日本人なんだ」とでも思ってくれているような、満面の笑みを浮かべてた。そのうえどでかいスーツケースをひょいと下ろしてくれて、ホテルの玄関まで運んでくれた。
挙げ句に「お元気で。仕事がうまく行くといいね」と励ましてさえくれた。ロシア人はやはり温かい人たちだった。「まったく俺には人を見る目が無い。これまでいったいどんな取材の仕方をしてたんだ?」
怖い怖いと思って緊張していたのだろう。ほっとした途端にどっと疲れが出てきた。前夜、ハバロフスク駐在の同期、H君としこたま飲んだウイスキーやらウオツカが、まだ頭の中で嵐を巻き起こしていた。
いずれにせよロシア旅行の際は、油断してはいけないけど、怖がっていても始まらない。知識不足があらぬ誤解を招き、ロシア嫌いにもつながる。ロシアには大変な問題が少なくないが、「俺の場合、自分が災いの種をまいていたなぁ。最低限必要な知識と簡単な会話くらいはぜひ覚えておきたいものだ」。と、今なら言えるのだが。