第1章 初めてのロシア
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横殴りの突風が、地表を走り抜けていた。白い飛礫が頬を打つ。滑走路は雪と氷に被われ、足元がおぼつかない。もうすぐ3月とはいえ、北緯45度の北辺。春はまだ遠い。 ありし日にチェーホフの胸を揺さぶったこの島は、流刑地の異名に相応しい横顔を見せてくれた。「ちきしょう、俺はこの島に歓迎されていないようだなぁ」
1994年2月27日、新任地サハリン。 記念すべき第一歩を記したユジノサハリンスク空港は、マロース(ひどい寒波)に包まれていた。
「日本なら空港閉鎖になっていたんじゃないか。よく着陸できたなぁ」 そんな風に思えるほどの荒れ模様だ。ロシアのパイロットは軍人出身が多いと聞いたが、確かに戦場ではなんでもありなのだろう。
「さぶーっ」。強い寒気で頬が痛い。 タラップを降りると、つるつるの路面。期待はしていなかったけど、日本の空港で見慣れたボーディングブリッジなど、やはりあるわけがない。それどころか、つい最近までは、外国人に門戸を閉ざしていたサハリン。つつがなく着任しただけでも良しと、考えなくっちゃ。
「仕方ないさ…」 ダウンコートのフードをすっぽりかぶって覚悟を決めた。まともに吹き付ける風を少しでも避けるため、うつむき加減で歩き始めた。
すると突然、ロシアなまりの英語で話しかけられた。 「エクスキューズミー インタナショナル……」
振り向くと、そばには小型の日本製ワゴン車が止まっていた。車体の横には、「インツーリスト」と、ロシア語で書かれていた。
「これに乗れというのだなぁ」
前日、既に新潟からロシアに入国。中継地のハバロフスクで旧友の駐在記者、H君としこたま飲み過ぎた私はその時、完璧な二日酔い状態。思考能力といえるものなど、ひとかけらも残っているわけがない。
しかし、悲劇はその時、静かに始まっていた。
思わぬ出迎えを受けて、ふと頭をよぎる話があった。
「お迎えにきました」 インツーリストの職員が、頼みもしないのにタクシーで空港へやってきて、法外なお迎え運賃を取る−という旧ソ連の観光ビジネスの話。
もっとも滑走路の中にまでタクシーが入り込むことなど、ありうるはずもない。そのとき、そんな分別ができぬほど、わが脳味噌は粕漬け状態だった。
ロシアの大抵の空港では、外国人は空港使用料を取られるケースが少なくない。その分、待合室や搭乗ゲート、手荷物の預かりなどが別扱いにはなっていた。
だが、そういう初歩的な常識すらなかったのだから始末が悪い。そう、確かに自分の勉強不足が悪いのだ。何でも人のせいにしてはいかん!
でも後悔は後からするものと相場が決まっている。
迎えに来ていたのは、なんと外国人乗客を専用ターミナルの国際部まで案内するリムジンバス代わりの車だった。
滑走路で声をかけてきたのは、サハリン航空の委託を受けたインツーリストの職員。一般客が歩いてターミナルビルへ行かされるのに(大きな空港ではバスや、バスみたいなトラック?に乗せられることもある)、外国人はワゴン車でお迎えという別扱いだったのだ。実は歩いても2分とかからない距離なのだが、別料金をとっているだけにサービスといえばサービスではある。これもペレストロイカの恩恵かといえば、嫌みになるが。
当時、函館−ユジノ線はまだ開設のひと月前。やむなく新潟からハバロフスクに一端寄り、そこからユジノへ向かった。この区間はもちろん国内線だが、外国人は到着したユジノ空港でもあらためてパスポートやビザのチェックを受ける義務がある。迎えの職員はその手続き窓口まで案内してくれる段取りになっていたのだ。
余り知られていないが、実はロシア大使館の外交官も旅行の制限を日本政府から課せられている。好きなところへ自由にいけるというわけではない。ましてついこないだまで外国人を閉め出していたロシアの島なのだから、そういうものだと思うしかない。
しかし、思いこみというのは恐ろしい。そんなお迎えがあることも知らず、しっかりロシア語で「スパシーバ ノウ ニィナーダ(ありがとう。でも必要ない)。仲間が迎えに来てくれている」と断った。ばかな事を言ったもんだ。サハリンで発した第一声は、まったく愚かな一言だった。 そして俺はロシア人の一般客と一緒に、吹雪の中を国内線ターミナルへと独りよたよた歩いて行った。
お迎えの職員たちは「どうなっているんだ。迎えに来てやったのに変な客だなぁ」と、狐に鼻をつままれたような顔をしていた。それでも「だまされてたまるか。こっちはちゃんと調べているんだから・・」とこっちはほくそえんでいた。まったくお間抜けな話。
さて、日ロ合弁で建設したモダンなハバロフスク空港とは違い、ユジノの空港ビルは管制塔らしきものを除けば、いったいなんの建物かよくわからない。三階建てで、どこが乗降客の出入り口なのかもわかりにくい。それでもロシア人乗客の後を付いていくと、まるで倉庫のような、機内預かり手荷物受け取り口へたどり着いた。
荷物はほどなくオンボロトラックの荷台に山積みされ、次々と運ばれてきた。まるで野菜かなにかを積み下ろすようにぽんぽんとベルトコンベアに載せられる。そして荷物は乗客の前をぐるぐると回る。原理は日本の空港と同じなのだが、どう考えてもこちらはどこかの港でよく見た倉庫の荷積み作業と変わり映えしない。
ちなみに後述する国際線の到着ロビーも似たようなものだが、ちょっとグレードが高く(?)、入管・税関窓口手前のロビーに荷物が運ばれることになっている。そして、国内線を利用する一般のロシアの人々は、屋内とはいえ暖房はなく、屋外とほとんど変わらない寒さのこの「倉庫」で、ひたすら荷物が届くのを待つしかない。
「はっきり言って30年は遅れているなぁ」。失礼ながらそれが実感だった。 どうも日本人は、立派な建物や便利な施設に慣れ過ぎているから、ちょっと粗末なものに出会うと、つい見下しがちだ。今考えると、そういう思い上がった意識が、ロシアでの生活をより過酷に感じさせていたのかもしれない。
日本だって、俺の子供時代は貧しかった。テレビに映るアメリカの中流家庭のマイカー、バスルームのあるマイホームなどなど、豊かな生活ぶりがどれほどうらやましかったか。
それはさておき、待てど暮らせど自分のスーツケースはでてこない。最後の荷物が持ち主に引き取られた。
そして、俺一人だけが取り残された。なのに荷物はこない。
「どうなっているんだ?」 荷物の中の金品が盗まれることも珍しくないとは聞いていたが、まさか荷物丸ごととは「おいおい、着いたばかりだぜ、冗談じゃない」。もう真っ青だ。
そこへでっぷりと太った(失礼)女性の係員がやってきた。
「ここはもう閉めるわよ。あんたなにしているの?」とぶっきらぼうに言う。困っている乗客を助けてくれそうなムードではない。どうも「おかしな奴が残っているわぁ」と、警戒されたようだ
しかし、おぼれる者はわらをもつかむ。
必死になって「チェマダーン(スーツケース)がない」と、荷物の預り証を手に振りかざし、訴えた(そのつもりだが…)。
「メジュドナロードヌイ・セクトルへ行きなさい…」
彼女は早口でそう言うと、良く聞き取れなかったこっちのことなど知らんといった調子で鍵をちらつかせ、露骨に追い出そうとする。そしてその荷物引き取り所にはついに鍵を掛けられてしまった。
「えっ、あの、その、ちょっと待って…」
もう動転してしまった。思い浮かぶのは、日本語ばかり。こんな時に言うべきロシア語がさっぱり浮かんでこない。脂汗、冷や汗がどっと出ても、言葉は全く浮かばない。
「ここを追い出されたらどこへ行ったらいいんだ。もしかしてみんなぐるになってだましているのじゃないだろうか」
やっと思い浮かんだロシア語を使い、すがる思いで尋ねた。
「グジェ?(どこですか)」 「スダー(あっちよ)」
あっちと言われても、自慢じゃないがわかるわけがない。大手旅行会社のガイドブックにもユジノ空港の配置図などまったく触れられていなかったのだ。
そして空港ビルの中にも案内板などはまったくない。「一人でサハリンへ渡ろうと思う人は、事前によく調べておいた方がいいよ」。それ以来、会う人ごとにそういっている。
ところで函館−ユジノ線は94年4月に開通したのだが、ユジノへ到着した後、入国・通関手続きにえらく時間がかかるのが問題だった。空港を出て自由になれるのは午後10時過ぎと遅い。空港の周りには何もない。あるのは、暗闇と危険ばかりだ。
ロシアの片田舎で、そんな時間に歩いている人などめったにいないし、日本人観光客などおっかなくて歩けるわけがない。バスも限られており、日本とはシステムも違う。初めて訪れる日本人には不便と言わざる得なかった。
そこで到着時間をなんとかできないものかと紙面で指摘したところ、社内審査誌ではおほめの言葉をいただいたのだが、函館の読者からお叱りの声が届いた。
「函館−ユジノ線は就航したばかりなのに、問題点をあげつらうのは地元紙のとるべき態度ではない。札幌中心の紙面づくりを考えているから、地元の視点に立っていない」と言う。
しかしである。夜の10時前後に着く便は経験的に言って、不便なばかりか、確かな機関のお迎えでもない限り、やばいのだ。日本とは違うサハリンの現実を知っていて、地元を思えばこそ、函館の将来を思えばこそ、函館−ユジノ線の発展を願えばこそ、ありのままを指摘したのだが…。 「国際空港」だからといっても、函館や新千歳空港のようにはいかない現実がある。なんでも日本の状態がスタンダードというわけでないのだ。むしろ日本は恵まれすぎていると思う。
さっぽろ雪まつりの時に、ウラジオストクとサハリンの新聞関係者を案内したことがある。時間はちょうど夜の10時。すすきののビル街を歩きながら、彼らは目を丸くして言った。
「ロシアでは、こんな時間に若い女の子が歩き回るなんて考えられない」と。
サハリン開発とつながる大事な路線が、不便で危険な時間帯に着陸するのは乗客にとっても、函館にとってもマイナス材料だ。万一大きなトラブルでもあれば、サハリン観光にも打撃は必至。その後、幸いにもユジノ到着時間が早まったことも考えると、あの指摘は極めてリーズナブルだったと今でも思うのだが。
さて、メジュドナロードヌイ・セクトルとは、ロシア語で国際部を指す。国際線や外国人乗客専用ターミナルのことで、わが荷物はそちらへ回されてしまったのだ。こちらはそんなこととは全然知らずにいた。まして初めて訪れたサハリンの空港で、案内図も無く、右も左もわからないまま、ただただ右往左往するばかり。とほほのほ…。
さぁ本当に困った。 かつて一度もロシア語を習ったことはなかったが、ユジノサハリンスク行きを命じられて以来半年、週4回2時間ずつかけて特訓した。家族連れで出かけるときもロシア語の教材テープを携帯型テープレコーダーで聞いていた。「こんな時になにも……」と、家族のひんしゅくを買いながら勉強したものだ。
とはいえ、40の手習い。付け焼き刃のにわか仕込み。まして人間慌てると、かろうじて覚えた程度の単語などあっという間に忘れてしまう。先ほどの係員はせっかく「国際部へ行け」と行ってくれたのだが、キーワードとなるロシア語をど忘れしていた俺は「何を言っているのか?」と戸惑うばかり。
「ナロード…?ヴ ナロード、人民の中へ…?あれっ違ったかなぁ」と悩んでウロウロしていると、今度はミリツィア(民警)、いわゆるお巡りさんが通りかかった。
思わず「パマギーチェ。モイバガーシュ ニエット」(助けてくれ。俺の荷物がないんだ)「ヤー プリショール ス ハバロフスク ド ユジノサハリンスク ノー バガーシュ ニィ プリショール」(ハバロフスクからユジノに来たが、荷物が来ない)と必死になって話したつもりだった。
しかし、頼った相手が悪かった。 「外国人だろうが何だろうが、ロシア語をわからん奴がロシア人に物を尋ねるのは十年早い」−どうもそんな固い信念を頑なに守っているような奴だった。いやいや、ロシアのお巡りさんは、もともと人民の友ではなかったかもしれないが。
カラシニコフ銃の速射のように、一気に早口なロシア語をまくしたててきた。
「おいおい、勘弁してくれよ。にわか仕込みの俺にもわかるように話してくれねぇかなぁ」。これまた半分も言っていることが理解できない。
ハバロフスクからの機内で、隣り合わせたアジア系ロシア人(ブリヤート・モンゴル系の人らしかった)の大学生と、ロシア語でなんとか話が通じたのに気を良くしていた自信は、とっくに雲散霧消していた。
さて、「まだロシア語がよくわからないんだ」と言うと、このミリツィアは「わからんだとぅ?」と言って、なぜか怒りだした。すべては「ロシア語を知らないおまえが悪い」と言わんばかりのムードだ。
要するに「俺の知ったことではない。とにかく空港事務所ヘ行け」の一点張り。それだけはなんとかこちらにもわかったが、それっきり知らんぷりしていなくなってしまった。取り付く島もない。やはり警官は人民を取り締まることしか教育を受けていないのか。日本の警官ならばただではすまさないが、ここでは相手が悪い。
「わからないから教えてくれと言っているのに…。聞いた相手が悪かったのか」 そう自らを慰めても、わからないものはわからない。だって、空港事務所がどこかも知らないのだからどうにもならないのだ。
結局、空港オフィスらしき場所を求めてしばらく歩き回ったあげく、ようやく偶然国際部にたどり着いた。空港ビルの最東端にそれはあった。そしてそこは、国際部と呼べるような場所とは思えなかった。まるで納屋の入り口のような木のドアが、辛うじて存在感を主張していたにすぎない。
しかも同じ建物の中でありながら、一旦、建物の外へでなければたどり着けず、それらしい看板も見あたらない不便さ。往生した。
ロシアでは辺境の地にあるサハリン。つい最近まで外国人の立ち入りも制限されていた。それだけに、ユジノ空港の国際部はにわかづくりで、日本人の感覚からすると「これでも国際線か」と思ってしまうほどさびれた雰囲気の暗い部屋だった。バブリーな国のおごった見方かもしれないが、世界の大国、ロシアに抱いていたイメージは早くも大きく崩れた。
「やれやれ」と、国際部の待合室に入った途端、目を見張った。わがスーツケースを持って歩いている男がいるではないか。
「やった」と思った。 預り証を突き出し、スーツケースをがっちりつかむともう離さなかった。四の五の言ったら殴り合っても良い覚悟だった。大半の荷物は、別途航空便で送られる手はずだったが、当面の生活に必要な物はスーツケースに入れていた。これが無ければ即お手上げだ。警察が頼りにならなければ、自分の荷物は自分で守るしかない。
などと、大げさに意気込んだものの、幸い運が良かった。「道新記者 サハリンで大立ち回り」なんてことにはならずに済んだ。実は、その男性は空港の職員。持ち主の現れぬ荷物を空港事務所に運ぶ途中だった。
「やれやれお前が忘れたのか」とでもいいたげな表情で、あきれながら彼氏は預り証を手に去っていった。内心、「荷物が盗まれたのでは」とばかり疑っていたのだが、やっと事情が飲み込めてきた。それだけに、勝手に大変だ思いこんでいた自分が恥ずかしい。まったく恥の上塗りだ。
正直言って、ハバロフスクの国際部で外国人だからと別料金をふんだくられ、挙げ句に荷物探しに追われて「なにがサービスだ」と勝手に思いこんでいた。誤解は不幸を招く。もともとはこっちの思いこみが悪いのだ。 まったく自分が迂闊なだけだったのだが、どうも勉強不足と誤解がすべての原因だったような気がする。正しい知識と偏見のない心、国際理解にはまずそれが大切−と身を持って学んだ次第。
とにかく荷物が見つかり、ほっとしたが、それにしてもサハリンの第一印象は残念ながら最悪になってしまった。
しかし、哀れにも「俺のブルー・サハリン」は、まだ幕を開けたばかりだった。