★ビッカさん

 ハボロフスク・インツーリストホテル地下のバーは、ムーディーな灯りに包まれていた。静かに流れるメロディーに耳を傾ける女や男たちが、グラスを傾け、和やかに夜のひとときを過ごしている。

                         

 少し離れたテーブルに若い女性が座っていた。20歳前後だろうか、かわいい帽子をかぶり、にこやかにこちらを見つめている。視線がぴったりとかみあった。「えっ、もしかして・・・こっちを意識している?」

 と、思う間もなく、彼女はハンドバッグからタバコを取り出し、こちらへやってきた。

 「ウバスイエェースチ スピーチク」(マッチはありますか?)

 おおっ、俺ってけっこうもてたりして。日ロ親善は酒場の片隅から・・・なんていい気になったのもつかの間、隣の席の友人が「ニェット」と言いながら、あっちへ行けとばかりに手を振り、追い払った。

 確かに二人ともタバコは吸わないので、マッチなんぞもってはいなかったが、なにも追い払わなくてもと、ちょっぴりもったいない気がする。

 「どうしたんだい?」
 「あの子は、娼婦さ」

 へぇ〜っと、思わずためいき。普通のお嬢さんにしか見えなかった。確かに、それらしいプロの姿はロシアのあちこちで見かけたが、どうも世の中色々だ。ロシア入国以前、語学教師のタチアナさんが「モスクワでは、口紅一本で体を売る若い子が現れるようになったの」と嘆いていた。

 やはりソ連崩壊の後、世の中のタガも緩んだし、経済混乱で仕事もなくなったせいだろうか。友人によると、このバーは彼女たちの「職場」であり、日本人客らも彼女たちを目当てに集まるのだという。

 と、そこへ30歳前後のしっとりした美人が通りかかった。

                          

 「やぁビッカさん」
 「あらぁHさん、お元気ですか?」

 けっこううまい日本語だった。あれれと目を見張る俺に、友人は彼女を紹介してくれた。差し出された手を握り、俺は彼女にグラスを勧めた。

 和やかに俺たちは世間話を重ねた。その脇を通り過ぎるロシア人や日本人が、彼女に挨拶を送っていく。

 「もしかして、けっこう有名人?」。そう思ったものの、口には出さず、友人の方に問いかけるように目線を送ったが、友人はただ談笑を続ける。

 う〜ん深くは追及するなってことかな?ここは大人しく様子を見よう。

 やがて、彼女は知り合いの一人に誘われるように別のテーブルへ移った。

 「あの美人は何者さぁ?」
 「ビクトリア、通称ビッカさんって言って、ここの女たちのまとめ役なんだ」

 ゲゲッ!なぁぬい?こいつは驚いた。
 
 「じゃあ、マフィアの女ボスかぁ?」
 「いや、マフィアじゃないんだ。ただ、彼女は女の子たちの相談役になったり、マフィアとの交渉役もやっているんだ。ここの日本人の間では、有名人さ」

 ほがらかそうに見えた美人に、こんなすごい一面があるとは・・・

                          

 聞けば、彼女は日本の企業で働いたこともあるとか。道理で日本語もけっこう達者なわけだ。いろんな日本人が彼女の「斡旋」を受けているという。俺の目の前でも、××銀行の駐在員がビッカさんと親しげに話していた。

 そういえば、サハリンでも知り合いの某公務員氏が、自室への「ラブコール」に答えて、一夜を共にした話を聞いたが・・・中にはサハリンで偶然であった日本からのミッションの一員に「女はいませんか?」と、いきなりぶしつけな質問をされたこともあった。まったく、新聞記者はポン引きじゃねぇぞ!

 これだもの、彼女たちにとって、金を持っている日本人はけっこういい客らしい。

 そうでなくても、ロシア人の愛人を囲っていた男など、何人も知っている。雑誌記者じゃないから、個人のプライバシーを暴く気はないが、彼らの奥さんたちが知ったら・・・

 さすがにビッカさんのプライベートについて詳しいことはわからなかったが、どうも離婚経験があるらしいと聞いた。彼女にもまたいろんなドラマがあったのだろう。