★流刑地

 北緯45度54分から北緯54度20分にかけて、948キロにも及ぶ細長い島、サハリン。ロシアは1875年、アレクサンドロフスク・サハリンスキーに行政府を置いて以来、1906年までこの島を流刑植民地に定めていたという。チェーホフが自著「サハリン島」で、島のルポルタージュを紹介して以来、ロシア国民の極東への関心が高まったとされる。

 かつての流刑地時代も相当に過酷な環境だったことは想像に難くない。そして現代の犯罪者たちが収容されるユジノサハリンスク拘置所も、相当に過酷だと聞いた。でもその一方、どうも金と力次第でどうにでもなる一面もあるという。

 助手のジェーニヤ君の話では、「犯罪者たちは、大陸の刑務所に入るのは仕方ないと思っているけど、ユジノの拘置所に入るのだけはいやだそうですよ」という。
 実は、ロシア主張領海を侵犯したとして逮捕された日本漁船の船長が93年、この拘置所で不慮の死を遂げていた。それだけに中の様子を知りたいと思っていた矢先、偶然にチャンスが飛び込んできた。

 「色丹の国境警備隊の収容所は、昼間は鉄格子の扉も開け放され、収容者同士で話もできたが、サハリンは違う」

 亡くなった船長と同じ船に乗り込んでいて、越境操業で逮捕され収容されたある日本人、Sさんは眉間にしわを寄せながら話してくれた。

 Sさんとは国境侵犯と密漁の容疑で裁かれたユジノサハリンスクの州裁判所で、審理の合間の休憩時間に思いがけず話を聞けた。

 脱線するが、ここの裁判所では、Sさんたち被告は最初、法廷の中の檻に入れられていた。もっとも、檻に入れられていたのは初日だけで、その後の審理では檻の外の普通の席に座らせていた。おまけに休憩時間中は、法廷の外にこそでられなかったものの、私はなんの障害もなく、Sさんたちと話ができた。こんなことは日本では絶対考えられない。それにしても、あの檻の意味はなんだったのか…。

 さてSさんの話にもどろう。
 「サハリンの拘置所では、6畳くらいの部屋に2段ベッドが2つあり、だいたい3、4人がトイレも洗面台も一緒の雑居房に入れられたんだけど、日本人はバラバラにされてしまって、片言のロシア語と身ぶり手ぶりでロシア人の連中と話すしかなかった」

 雑居房の見取り図を書きながら話すSさん。雑居房の中では、収容者同士が荷物を盗みあうことも珍しくなく、Sさんも身の回りの品物を何度か盗まれたという。

 そしてSさんにとって、最もつらかったのは食事だった。
 「めしはまずくて食えたもんじゃない。ほとんどの日本人は最初、のどを通らないんだ。そのうち腹が減って仕方なく手を出すようになるけど、うまいめしくいたいねぇ」

 Sさんにとって、もともとロシア料理はなじみが薄く、香辛料や脂っこさが口に合わなかった。それだけに、拘置所の食事は決して快適なものではなかったようだ。Sさんから詳しいメニューについては聞き漏らしたが、事情通の話では、昼飯はひとかたまりの黒パンにロシア風のお粥・カーシャを一皿ということも珍しくないそうだ。

 かつて勤務した網走支局時代、網走刑務所のいわゆる「臭いめし」を味見させてもらったが、ご飯に麦の混ざっていることを除けば、一般の社員食堂の定食以上のレベルだった。さすがにロシアの経済が混乱していた事情もあるが、容疑者・受刑者の人権に対する考え方は旧ソ連時代の感覚が色濃く残っているのだろう。

 さて、ロシアの料理について、別の章でも紹介しているが、私の経験を言わせてもらえば、実はサハリンでは、家庭料理が一番うまかった。それに一部のまともなレストランなら、それなりにロシア料理を楽しめた。ただ、それでも朝から晩まで年中となると、Sさんならずとも日本食が恋しくなるのは無理もない。

 まして、サハリンの某官庁の食堂など、公共の?食堂や場末のになると、ロシア人でも「けっしてほめたものではない」という。それだけにSさんの訴えに「そうだろう。そうだろう」と、ついうなずいてしまった。

 しかし、である。そんな中にあってもマフィアのボスならば事情は違うという。酒も飲めるし、たばこはおろか、マリファナまで回し飲みしていた。実は、地元紙の「ソビエツキーサハリン」の記者によると、「女だってどうにでもなるんだ」。

 実際に起きた事件として地元で報道されたのだが、あるマフィアのボスが、拘置所の医師と結託。盲腸を装って診療室に駆け込み、医者から銃を受け取って脱走するということすらあった。

 まったく信じられないような話だが、サハリンにいるとそんな話が「さもありなん」と思えてくるから不思議だ。ユジノ支局の助手、ジェーニャ君に聞いても「マフィアなら、それくらい当たり前でしょう」と、平然と答えた。

 「フレンチ・コネクション」の著者、ロビン・ムーアが書いた「モスクワ・コネクション」という小説のなかでも、ヤポンチクというマフィアのボスがしたい放題のことを繰り返し、牢名主どころか、事実上の支配者となっている姿が描かれているが、こういう話はあながちフィクションと切り捨てられないような気にさえなってくる。

 力のあるマフィアのボスとなると、塀の中にいるか、外にいるかは別としてほとんど待遇は一緒。どこにいようと、相変わらず懲りない日々を送っているというなら、あきれたもんだというしかない。

 ところで、拘置された日本人にとって、めしがまずいだけならまだまし−なのだ。

 Tさんは、ある漁船の船長として、密漁容疑で拘置されていたが、ひどい痔を抱えていて不衛生な拘置所で相当に苦しんだ。医者に症状を訴えても「密漁者のくせに」と満足に治療してもらえなかった。裁判でお会いしたときに「痔の薬が手に入りませんか…」と、辛そうな表情で話していたのを覚えている。

 Sさんと同じ時期に、サハリンの拘置所で拘束されていたUさんの場合、事態はもっと深刻だった。

 「本当に殺されると、思った」

 Uさんの場合、何が気に障ったのか、同じ雑居房に居合わせたロシア人から殴る蹴るの乱暴を受けた。Uさんは、海で鍛えたがっちりしたタイプで、ロシア人に手玉にされるようには見えなかったが、なにしろ多勢に無勢。

 「目の周りに青たんができて、ひどいつらになってしまった」という。

 ロシアの刑務所では、力のある服役囚が、仲間の食事を奪ったり、気に入らない相手をリンチするという話も聞いていたが、実際にそういうことってあるものなのだ。

 その話を聞いて、ふと気になったのは、同じ拘置所内で亡くなった船長のことだった。「あの船長さんはどんな日々を過ごしていたのだろう…」と。