★はるかなシベリア

 「こいつはすごい量だよ、ジェーニヤ」
 目録を手に、私は目を見張り、助手に声をかけた。意外な資料が、お膝元のユジノサハリンスクに眠っていたからだ。

 私は1995年2月、サハリン州の国立公文書館に半月余りロシア人助手と通い詰めて抑留者関係の公式記録を賢明に調べた。それは北海道新聞が94年から95年にかけて追及したシベリア抑留に関する調査取材キャンペーン「はるかなシベリア」シリーズの一環だった。私にとっては、サハリン取材の卒業論文を仕上げる取り組みでもあった。

 ここで、サハリンにおけるソ連軍の侵攻と日本兵の連行・抑留の歴史を少しおさらいしたい。

 太平洋戦争の末期、旧ソ連軍が対日戦に参戦し、怒濤のように旧満州や南樺太、つまりサハリン南部へ攻め込んできた。

 1945年2月のヤルタ秘密協定「樺太の南部及びこれに隣接する一切の島しょは、ソビエト連邦に返還さるべし−」に基づいて同年4月5日、日ソ中立条約を延長しないと、一方的に日本側へ通告。8月8日、ついに日本に対して宣戦を布告した。そして12日、ついに北緯50度の国境線を越えて、本格的に南下した。

 圧倒的な戦力のソ連軍の前では、爆弾を抱えて戦車に飛び込む日本兵の反撃も歯が立たなかった。13日に塔路(シャフチョルスク)、恵須取(ウグレゴルスク)が空襲に遭い、北部では住民の悲惨な自決が相次いだ。玉音放送が流れた15日にも停戦は実現せず、ようやく18日、大本営が全軍に停戦命令を出すに至って翌日に武装解除された。

 それでもソ連軍は20日、上敷香(レオニドボ)を空襲、真岡(ホルムスク)へ艦砲射撃を放って上陸した。真岡では、逃げまどう住民にすら銃撃が加えられた。そしてその渦中、真岡郵便局の女子交換手9人が、「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」と最後のメッセージを残し、集団で服毒自殺を遂げる悲劇も起きた。

 現在、郵便局跡にはアパートが立ち、既に面影はない。

 サハリン南部に住んでいた日本人の緊急避難が相次ぎ、13日から23日までの間に約87000人が北海道へと脱出。その間の22日には、引き揚げ船が留萌沖でソ連の潜水艦に撃沈され、約1700人が亡くなっている。

 また、日本軍は28日までに武装解除を終えたが、約2万人の将兵は1万5千人に激減していた。そして、上敷香、落合(ドリンスク)、豊原(ユジノシャリンスク)、大泊(コルサコフ)へ集められ、同年11月までに約2千人がオハ地区などサハリンに抑留され、残りの将兵は、極東からシベリア方面へ連行された。また、11月には、全島のほとんどの警察官がシベリア送りとなっている。

 樺太抑留の核となったオハは、戦前から日本が油田開発に力を入れていたところで、抑留者たちは49年まで油田関連の労働や森林伐採などに従事させられた。

 46年11月に「引き揚げに関する米ソ協定」が成立、サハリンから日本人約27万人が帰国したが、韓国・朝鮮人は帰国を認められなかった。そしてこの残留問題は今日なお、尾を引いている。

 公文書館の目録を見ると関連の資料は4千点にも達していた。その1つ1つの資料にどんな真実が隠されているのか。手探りで進めるしか道はない。当初は気の重い作業にさえ思えたほどだった。

 そんな中からサハリン北部の町、オハにあった第22収容所に関する興味深い記録が次々と浮かび上がってきた。

 94年の秋に現地のオハを訪ね、色々取材していたのだが、記録資料のたぐいは皆無だった。唯一の成果は、イワン・サンタロフさん(取材時76歳)という元オハ市の共産党第一書記に会って聞いた収容所の記憶だった。

 サンタロフさんは、高齢にもかかわらず、収容所の事を昨日の事のように憶えていた。スターリン時代に無実の罪で「反革命の烙印」を押された人たちの名誉を回復する委員会の委員長をしていた。

 突然の訪問にもかかわらず、はるか昔の戦後の記録を求めてわざわざ日本人が訪ねてきた事を心から歓迎してくれた。

 そして当時、収容所があった場所を一緒に訪ね、さらに今はほとんど利用されていない旧日本領事館の建物や戦前に日本人が石油開発を進めていた油田、作業所跡などさまざまな場所を案内してくれた。

 「ここから日本兵たちは歌いながら行進して、油田施設の建設や伐採に向かいました」

 オハ市の南西部、油田のある小高い丘のふもとで、サンタロフさんは3棟のバラック小屋を指さした。

 オハは、樹木が少なく、赤茶けた土がむき出しになった土地が多い。宿舎や集会所だったとされる建物は、赤茶けて荒れるままになっていたが、今は物置か何かに使われているらしかった。はたして当時のままなのかどうか。それともその後に建てられたものなのか、どちらとも私には判断が付かないようなありさまだった。

 周辺には民家や工場などが点在し、のどかな時間が流れていた。2千人もの日本兵が過ごした日々を忍ばせる面影は既になかった。

 当時の抑留者たちの生活に話が及ぶと、サンタロフさんは「当時は強制労働も仕方がなかった。コメは十分でなかったかもしれないけど、われわれの食料だって十分ではなかったのだから」と、ムキになって言う。

 しかし、重労働を課せられた日本人たちが、次々と影響失調や病気で亡くなった事実は消しがたい。多くの人々が抑留中に無くなった事実について、ロシア側関係者は敢えて避けようとするのか、それとも記憶の中から既に消し去られたのだろうか。

 そんなサンタロフさんも、親しかった抑留者について尋ねると表情がなごんだ。

 「病院が宿舎の近くにあった。サトーといったかな。名前はよく覚えていないが、ロシア語を少し話す医者がいた。反戦論者だったよ。確か日本に娘さんがいるといっていたけど。もし生きていれば80歳前後ではないかなぁ…」

 しかしオハだけでも、64人もの日本兵が亡くなっている。オハの北西部、まちはずれの墓地に日本兵の墓が柵で囲まれてあった。北海道ロシア交流協会と日本ロシア仏教者平和交流会が1993年3月に建立した「オハ墓地に眠る日本人旧兵士の慰霊碑」が静かに佇み、64人の名前をそれぞれ記した墓標が整然と並んでいた。

 だれが手向けたのか、小さな花束が風に揺れていた。30センチ立方の白く塗られた墓石が点在し、それぞれの名前が刻まれていた。

 野犬が周囲をうろついていた。時折、人を威嚇するように吠える。どんよりとした鈍色の空からは、にわかにみぞれも落ちてきた。ぬかるんだ地面がさらに緩んでいく。人通りもなく、荒涼とした視界の中に佇んでいると、寂漠感が一段と募った。

 「亡くなった人たちは、必死に故国への帰郷を願っていただろうに…」

 慰霊碑に安らかな眠りを祈りつつ、収容所の実像を少しでも明らかにしたいと感じた。「異郷に眠る人たちの無念を少しでも晴らせたなら…」。私はなんとか新たな取材資料を発掘しようと思い立ったが、なぜか、オハの郷土博物館には当時の記録がほとんどなかった。そして行き着いた先が、意外にもお膝元のユジノサハリンスクだった。

 サハリン州国立公文書館の資料は、多くは第22収容所の内部文書で、ハバロフスクの内務省捕虜管理局地区本部からの秘密指令や報告などがあった。あまり上質ではない紙に達筆なペン字、歪みの目立つタイプ文字などが記されていた。様式はさまざまだが、大半に「マル秘」を意味する「セクレートナ」の判が押されていた。その事務的な、あまりに無機質な表記を読み続けると、異郷に捕らわれ、過酷な月日を送った人々の無念さ、苦しい思いが余計に忍ばれた。

 そんな文書の中に2枚つづりの一覧表のようなものを見つけ、私はハッとした。

 それは収容所で亡くなった人たちの死亡原因をまとめたものだった。オハの墓地にあった墓標の数と同じく、64人分のリストだ。そこには、ロシア語表記で書かれた名前と、誕生年、死亡日、埋葬日、死亡原因(ただ、死亡原因について触れられていないケースも半数近くを占めていた)などが記されてあった。ただ、名前の一部は、聞き間違いではと思える不自然なものもあった。

 当時、すでにゴルバチョフ旧ソ連大統領が抑留中に亡くなった日本人のリスト3万7千人分(実際には約6万人が抑留中に亡くなったとされている)を日本側に公表していた。だが、死亡原因にまで触れたものは公表されていなかった。

 リストには結核、肺炎、栄養失調などの記述が目立つた。厳寒期の森林伐採など、過酷な労働の割に粗末な食事で体力が著しく損なわれた事を物語っていた。実際、他の資料では、ひもじさから食料を盗み、食事抜きで重営倉入りとなった抑留者の記録も多数残っていた。

 さらに作業中の事故死も9人分が明記されていた。1946年7月27日の指令第251号によると、「労災の死亡率は高く、今年初めから現在に至るまで重大事故は15件あり、うち7人が死亡。この大部分は伐採による」とそっけなく記されていた。

 だが、もっと悲惨なのは、警備のソ連兵によって殺された3人だ。その3人とは死亡日が一致しないのだが、別の記録資料では「46年6月25日の事件で、イワン・コンドルという兵士が理由も無く、撃ち殺した。武器の違法使用だ」とあった。

 こうしたリンチまがいの行為で、死亡理由も記されないまま帰らぬ人となったケースも少なくないのではと、私は戦慄を感じた。

 どんな事情で亡くなったのか、死因を知りたいと思う遺族も少なくないのではと私はその時思った。しかし、中には死因を伏せざる得ないケースもあった。ご本人や遺族のプライバシーを考慮して、この一覧表は結局、紙面には掲載しなかった。

 このほか「反ファシズム教育宣伝」が盛んに行われる中、選出したアクチブ(活動家)についての調書や研修、給与支払いに関する指令もあった。

 逆にアクチブに匿名の脅迫状が送りつけられたケースの報告書など、日本人の間の反目を示す文書もあり、ソ連当局の分断統治を思わせる。

 一方、以外に少なかったのが、写真だ。

 全部合わせても数十枚足らず。当時としては、写真はいまほど普及はしていなかったにせよ、「この程度とは」とがっかりした。

 それでもソ連軍の占領後、捕虜となり、ポロナイスク(敷香)付近に集結させられた多数の日本兵の様子や、ホルムスク(真岡)に上陸するソ連軍、旧国境付近戦地に残された日本軍の野砲、ソ連の将校に整列させられた日本の警官か鉄道職員と思われる写真、さらにソ連軍の大佐と語らう日本兵の写真などが興味を引いた。これらの一部は、95年2月28日付の北海道新聞紙上で特集として紹介した。

 すると思いがけず、読者から反応があった。

 戦後50年を経て、1枚の写真が歴史を遡る役目を果たしてくれた。

 ソ連軍の大佐を囲むように写っている日本兵の中の1人は自分だという。

 後志管内積丹町美国船間の小笠原斉さん(83歳)。写真は、日本が降伏後、落合でソ連軍の政治部長、ルシコフ大佐が話すのをほかの日本兵とともに耳を傾ける場面となっていた。

 小笠原さんは、蘭泊(ヤブロチヌイ)に妻のあいさんや子供たちを残し、1945年3月に召集されたが、落合で武装解除され、その後、大泊(コルサコフ)経由でナホトカへ送られて46年11月まで抑留生活を送った。家族も47年6月に引き揚げて来て、無事再会を果たしたが、「今はもうソ連を恨む気持ちはないが、シベリアでは不条理な目に遭った」。

 乏しい食料、真冬の強制労働で無くなった戦友が身ぐるみはがされて埋葬された辛い思い出などが、再びよみがえったのだった。

 雪解け期とされたフルシチョフ時代の50年代半ば、サハリンでも大陸でも収容所は相次いで閉鎖され、その内部文書は公立文書館へ移された。一部はモスクワやハバロフスクの公文書館にも移されたものと見られる。その中にはさらに、収容所の実像を示す内容が秘められているのかもしれない。

★旧ソ連軍が進駐後のサハリンの様子を物語る写真が、
サハリン州国立公文書館に保管されている。その一部を
紹介します。


 ソ連兵と日本人の家族=ユジノサハリンスク(豊原)市内



旧国鉄職員か警察官と見られる男性に尋ねるソ連軍将校
 =ポロナイスク(敷香)とみられる



警察官と思われる二人とソ連軍将校
=ポロナイスク(敷香)らしい



集結させられた日本軍兵士や警察官らとみられる。
抑留生活は、ここから始まったといえるだろう。
後ろの建物は、敷香の役場らしい。
                 =ポロナイスク(敷香)



  上の写真と反対方向から撮られた写真
                    =ポロナイスク(敷香)



 収容所へ向け、整然と行進する日本兵ら
                  =ポロナイスク(敷香)