★60年の歳月

 「お姉さんですか?本当にお懐かしいですね…」

 宗谷海峡の北と南側に引き裂かれた多数の家族。1994年4月、そのうちのひと組の姉妹が日本で半世紀余りの月日を超えて再会するめどがついた。そこで一足先に、電話で熱い思いを語り合ってもらおうと、ユジノと枝幸の両道新支局が連携して橋渡しした。

 サハリン側は、天野佐喜子さん(当時66歳)=トロイツコエ=、日本側は千代さん(同79歳)=宗谷管内枝幸町=。

 戦前の樺太時代、事情があって、家族と別れ別れになった佐喜子さんは、日本へ一時帰国した人たちの話を聞く度にうらやましかったという。それが長い歳月を経て、お互いの無事が確認され、再会のめどがついたことを本当に喜んでいた。

 「もうみなさん他界されたとばかり思っていたのですが、幸せです。ただ、せめて20年前にわかっていたなら…」と、複雑な思いもかいま見せていた。

 終戦後、韓国・朝鮮人の男性と結婚した女性など日本への帰国がかなわなかった人たちは多く、私の赴任した当時でも、サハリン全土で約1000人が残留していると聞いた。さらにその子供や孫の世代へと移り変わりつつある。永住帰国できた人も多いが、身よりもなく、独りで余生を送っている人も少なくない。

 私が在任当時、サハリン北海道人会の会長だった川端芳子さんは、威勢の良いおっかさんという感じの人だった。残留日本人一時帰国、永住帰国促進に奔走していた。その川端さんも96年、自ら永住帰国を決断し、まさに函館行きの飛行機に乗り込もうとした矢先に帰らぬ人となった。胃ガンだった。

 川端さんは、引き揚げの列車に乗り遅れるなどの不運が重なり、サハリンに残された。1989年から自らと同じ残留日本人探しを開始。その後、サハリン北海道人会を設立。集団一時帰国を進めた。

 そしてご自身もついに永住帰国を決意したが、病の進行と帰国準備が競争し合う形となった。96年11月13日の送別会では、いつも通り快活に笑って話す姿が見られたという。しかし、翌日から腹痛を訴えるようになり、「薬を飲みながら日本へ帰る準備をしていた」という。そしてついに25日、帰国直前に無念の死を迎えた。

 無事に帰国していたら、当時函館報道部に勤務していた私も、函館空港までお迎えに行き、歓迎の輪の中に加わりたいと思っていたのだが。帰国がかなわずにサハリンに今も眠る多くの残留日本人の方たち、そして「函館にサハリンの家を造りたい」と願っていた川端さんのご冥福をあらためて祈りたい。

 ところで、日本への「帰国」を夢見て失意の日々を送っていたのは、日本人ばかりではない。
 李春三(イ・チュンサム)さん。当時78歳。韓国出身で、戦前から釧路管内阿寒町などで暮らした後、サハリンへ渡り、そして終戦を迎えた。他の残留韓国人同様、李さんは引き揚げ船には乗せてもらえず、サハリンに残らざるを得なかった。

 「3歳の時から北海道で育った。ふるさとは北海道しかない。日本以外の国籍はとりたくない。いつかは日本へ帰るんだ」

 そう固い決意を持ち続けた李さんは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍もソ連国籍も取得せず、無国籍のままで通した。
 
 毎晩のようにやってくる旧ソ連共産党の幹部らの説得や脅迫を受けても、首を横に降り続けた。しかし、旧ソ連時代、それも外国人の受け入れを制限していた国境地帯のサハリンで、無国籍を貫くことは多くの犠牲が伴った。
 
 「私だけならともかく、子供の進学や就職にも影響しました」という李さん。

 「私は進学したがっていた息子に言いました。すまないって。でもどうしても日本以外の国籍を取る気にはなれなかったんです」。老眼鏡の奥に光るものがあった。

 私が李さんと知り合ったのは、1994年7月、当時の横路・北海道知事がサハリンを訪問する直前。ユジノの事務所を李さんが訪ねてきた。「知事にお願いして日本へ帰国することはできないだろうか」という相談だった。

 横路知事とは、取材を通じて面識はあったが、これは知事にとっても難しい問題だ。なんの保証も李さんにできなかった。しかし、生まれ故郷の韓国ではなく、育った北海道へ帰りたいという李さんの熱い思いが、痛いほどに伝わった。

 「永住帰国というかたちで日本へ渡ることは難しいと思います。しかし、訪問というかたちでなら道は開けるかもしれません。北海道には、李さんの思いを受け止めて協力してくれる人が現れるかもしれないので、知事がサハリンを訪れたときに相談だけでもしてみたらどうでしょう」
 私はそう答えるのがやっとだった。

 そして李さんは、来島した横路知事に熱い思いを訴えた。

 その後も私の事務所を毎月のように訪れては「北海道から連絡はないですか」と尋ねられた。音沙汰がないことを聞いてがっくりと肩を落とす李さん。その寂しそうな後ろ姿が辛かった。

 私も居たたまれず、道新本社政治部の後輩に「せめてダメならダメで、李さんに返事をしてあげられないだろうか」と知事周辺への打診をお願いしたほどだ。

 幸い、横路知事と北海道日ロ協会(当時・対馬孝且会長)の尽力でその年の12月、李さんは念願の北海道訪問が実現した。訪問のめどが付いたとき、私は家を尋ねて李さんに吉報を伝えたのだが、その時、涙を浮かべながら喜んでいた姿が今でも浮かぶほどだ。

 李さんは、50年間願っていた夢をついに実現できた稀有な例といえる。韓国への永住を夢見ながら、思いを遂げることなく、サハリンの土に眠る残留韓国人の方たちがどれほどいたことか。まして、戦後のサハリンでの生活は、社会主義体制下でのさまざまな苦労を余儀なくされており、見捨てていった日本への恨み辛みを耳にしたこともある。

 その後、李さんは「北海道へ招いてもらったお礼に」と阪神大震災の被災者への義援金を北海道貿易物産振興会ユジノサハリンスク事務所に託した。

 そしてもう一人、李周雨さん(当時63歳)と名乗る残留韓国人の男性が尋ねてきて、私に義援金を託してこう語っていた。

 「他人事とは思えなかった。私にできる精一杯のことです。被災者の皆さんがんばってください」

 この一言がずしりと胸に響いた。日本が、かつてサハリンの韓国・朝鮮人の人々に何をなし、何をなさなかったのか。今なお日本人自身が問い返さなければならない問題だと思う。