莫高窟の入場口に向かうポプラ並木通りの傍らに、ガラス窓がついた掲示板が立っている。そこに日本髪を結った女性の肖像画が飾ってあった。

 北海道出身の越智佳織さん。日本大学文理学部を卒業後北京に留学してまもない1984年、敦煌を訪れた時に輪禍に遭い、亡くなった。

 佳織さんは生前、莫高窟が風と砂に侵食される被害にさらされていることを知り、「人類の宝である遺跡をもっとよく保護できたらいいのに」と話していた。両親は遺志をくんで留学費用にしていた200万円を保護基金として贈った。肖像画はその記念だった。

 掲示板にはほかにも、シルクロードを題材にした絵で知られる平山郁夫・東京芸大名誉教授や、創価学会の池田大作名誉会長の肖像画もあった。それぞれ「2億円」「1億円」と寄付額が記してある。日本人が強いあこがれを抱く敦煌に、さまざまな立場でかかわる人たちがいる。

 敦煌が一躍世界に有名になったのは、20世紀初頭、莫高窟を管理していた一人の道教の道士が偶然大量の経典を発見したことがきっかけだった。この経典や壁画、塑像の美術品をめぐって英・仏・米・日・露の探検隊が争奪戦を演じる。秘宝が国外に持ち去られることによって、「敦煌」の名が全世界に知られるという皮肉な展開だが、詳しくは機会を改めて紹介したい。

 莫高窟は世界最大の美術館といえる。石窟は現在、仏像や壁画のある南側に492カ所、僧の住まいだった北側に百数十カ所の石窟が残っている。時代として五胡十六国の北涼から始まり、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、西夏、元と合計10の王朝、1000年に及ぶ。塑像が2415体、壁画の総面積は45000平方メートルという。

 壁画のテーマは釈迦の生涯、中国の西王母伝説、飛天(天人)、王族の生活、農耕風景など多彩で、ガンダーラ美術も漢文化も華やかに展開されている。第323窟の「張騫(ちょうけん)西域出使図」(初唐)は西域開拓の立役者、張騫が漢の武帝に出発のあいさつをしている場面で、張騫を描いたものとして唯一残る作品だ。

 そんな美術の宝庫を目指して、世界各国から単なる観光でなく研究者、研修生が押し寄せる。私たちが訪れた時も、アメリカの美術大学生30人が1カ月間の合宿中だった。

 敦煌の文物研究と保存活動の拠点は敦煌研究院。主任研究員の彭金章先生は「敦煌・莫高窟は東の文化と西の文化の交差点。各民族の文化の成果が集まっており平和と友情の象徴です」と話し、「日本の奈良時代の留学生は長安に学んだが、長安の文化は敦煌から伝わったもの。敦煌は奈良まで続いている」とも語った。

 標高1200メートルの敦煌は年間降水量が39ミリ、蒸発量は2400ミリという乾燥地帯で、祁連山の雪解け水が不足を補う。が、莫高窟の前を流れる大泉河も年々水量が減り、研究院では今年新しい井戸を掘り直したばかりだ。

 乾燥地帯の農業を見たくて近郊に一軒の農家を訪ねた。夫婦で綿花の畑に出ていた。6月、草丈は50センチほどに伸び、おおっているビニールシートをはずしている最中だった。シートは保温のためと、むろん土の水分の蒸発を防ぐ意味もある。綿花はここ甘粛省と西隣の新疆ウイグル自治区の産が中国で最も上質とされる。

 敦煌で採れる野菜は以前はキュウリ、トウモロコシなど数種類にすぎなかった。1982年に市長が代わって技術改良に乗りだし、いまは数十種類に増えた。

 トマト、ナス、セロリ、レタス、キャベツ、ダイコン、ハクサイ…日本とちっとも変わらない。

莫高窟入り口に飾られている越智佳織さん(北海道出身)の肖像画

敦煌市街中心部のロータリーにシンボルとして立つ高さ15メートルの飛天像は今年6月に建て替えた。莫高窟第12窟の壁画「反弾琵琶伎楽」がモデル。琵琶を背にして弾く姿が珍しい

第220窟の壁画「阿弥陀教変」(初唐=7世紀)。中央に双樹を背にして阿弥陀仏が座し、左右に菩薩をしたがえて聖衆に説法している=敦煌研究院付属展示館展示の複製
第275窟の塑像「交脚弥勒(みろく)菩薩」(五胡十六国の北涼=5世紀)。莫高窟最初期の塑像の一つで現存する初期の弥勒塑像として最大のもの=敦煌研究院付属展示館展示の複製