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花摘泰克
写真 飛田信彦

大砂丘の突端に造られた莫高窟。赤い柱の北大仏殿は最初唐代に4層の楼閣として建てられ、その後少しずつ高くなり、現在の9層は中華民国時代の1930年の建築
 
 なぜ、人里離れた砂丘の絶壁に無数の洞穴が開いているのか。どうしてそこに、膨大な量の仏像と仏画が残されていたのか−−。

 初めて莫高窟(ばっこうくつ)を訪れると、奇妙な思いにとらわれる。

 世界文化遺産に指定されている石窟(せっくつ)寺院・莫高窟は、敦煌(とんこう)市街から東南へ25キロ、砂れきのゴビ灘(たん)のただ中にある。鳴沙山の大砂丘が東西40キロにわたって横たわる、その東の端だ。

 高さ50メートルを超える岩壁に4段、5段に掘られた石窟は約600。それが1600メートルも連なっている。千仏洞とも呼ぶ。

  唐代の記録によると、最初の石窟が開さくされたのは4世紀半ばのこと。旅の僧がたまたまこの地にやってきたところ、金色の光が見え、千の仏がいるようだった。そこで仏を入れる石窟を一つ造ったのが始まりだという。

  時は、複数の異民族が中国の北半分の支配を激しく争った五胡十六国時代。インドからパミール高原を越えて伝わった仏教が、敦煌を入り口にして河西回廊に興隆していく時期だった。

 
 莫高窟の地理環境を考えると、仏の道を求める僧にとって格好の聖地であったことが分かる。

 ふもとに、祁連(きれん)山脈の雪解け水が流れとなった大泉河(だいせんが)という名のか細い川が流れ、緑のポプラ林がある。こぢんまりしたオアシスが形成されているのだ。

 敦煌市街に付かず離れずで、俗塵(ぞくじん)を隔てながらも、たく鉢に便利だ。仏前に備える聖水と飲料水は川から得られる。石の穴は、インドの達磨大師(だるまだいし)が壁に面して座ったように修行の場である。

 こうして記録では中国最古とされるこの石窟寺院は、以後14世紀の元朝末まで1000年にわたって石窟が掘られ、栄えた。建築、壁画、塑像、文書、世界に例を見ない規模で仏教美術の宝庫を残した。

 −−敦煌研究院の彭金章(ほうきんしょう)先生の案内で古い石段を上り、莫高窟の屋根に立った。まぎれもない砂丘の尾根の端だった。アメリカの技術を導入してオーストラリアが設備したという防砂柵の列があった。眼下のオアシスの中に日本の資金援助で建てた展示館が見えた。

  人類の遺産を守る営みも少々国際的だ。

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