古代遺跡にからんで「現代の防人の哀話」があるなどと思わせぶりな書き方をしたが、率直に「辺地単身赴任家庭崩壊物語」と言い換えたい。

 重要な遺跡にはそれを保護管理する人が必要だ。敦煌周辺にも、ゴビ灘の中にポツンと取り残されたようにある一つの遺跡を守るAさんがいた。年齢は40がらみで一人住まい。羊を飼い、わずかな菜園を耕し、犬と猫と観光客を相手に暮らしている。

 地元の観光ガイドが教えてくれた。

 「彼にも以前は奥さんがいた。ここに勤務が決まった時、奥さんは不便な地を嫌い敦煌の町に残って働いた。そのうちにいい人ができてしまった。彼は捨てられたんだ」

 むろん電気、水道は来ない、テレビはたとえあったとしても映らず、世間のニュースを知らない。小さな風車を回す風力発電で3、4個の裸電球をともし、土産品を売っている。観光収入は生活費の大きな比重を占める。

 「いいんだ、一人の方が気楽さ。それより羊を食べないか?」。Aさんは話題を変えて、勧めてきた。もしうなずけば、丸ごと一頭をほふってしまうから、田舎料理とはいえ高いものにつく。私たちは、持参した揚げパン・缶入りおかゆ・その他で昼を済ませた。余りを人なつこい猫にやった−。

 玉門関の砦の近辺には河倉故城と呼ぶ食糧倉庫の壁が残り、またところどころに漢代の長城の残がいがある。このあたりは大きな石がないから、すべて黄土をこね回しアシその他の草を入れて固めた壁でできている。

 玉門関や河倉故城の北側数百メートルのところを疎勒河(そろくが)が流れている。標高5564メートルの祁連山を主峰とする祁連山脈からの雪解け水の流れだ。敦煌付近の年間降水量は40ミリ前後、蒸発量はその60倍。乾燥地帯にあって命の綱といえる雪解け水である。源が「さまよえる湖」として知られるロプノールに発するという疎勒河は、渇水期には干上がって途切れ途切れになる。それでもこのあたりの流れが水量豊かだから砦を築いたのだろう。

 当時は玉門関にも陽関にも市街地が形成されていたが、13世紀、チンギスハーンの勢力がこの地をのみ込むのと前後して砂漠化が進み、集落も消えたという。

 気温40度に届こうとする夏、強い日差しに照りつけられる遺跡の赤茶けた姿は無残だ。

 「兵共(つわものども)が夢の跡」と詠嘆するよりも、むしろ2000年来この辺境の地で横死を重ね続けた農民兵たちへの哀感がつのる。秦漢帝国以来、専制君主たちの強大な権力によって駆り出され、長城と砦建設、前線守備についた無名の人たち。

 三国時代の詩人陳琳(ちんりん)は『飲馬長城窟行』の中でうたう。「長城何ぞ連連たる 連連として三千里 辺城健少多く 内舎寡婦(かふ)多し」−果てしもなく続く長城。その辺地に駆り出される若者は多く、留守宅には夫を失った女が増える一方だ…。

 この嘆きは、わが国の『万葉集』に多数収められた「防人歌」にも通じる。防人は663年、朝鮮半島の支配をめぐって日本・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍と白村江(はくすきのえ)の海に戦い、完敗したあと設けられた制度。天智天皇は大唐帝国の侵攻を恐れた末に、東国から農民を筑紫国に上らせて沿岸守備に当たらせた。

 防人の一人は数百里離れた故郷を思い「わが妻はいたく恋ひらし水に影さへ見えて世に忘られず」とよんだ。

 これはまた、秦漢・万葉の時代に限らず、つい五十年余り前にも見た風景である。  

玉門関の砦跡。長辺が25メートル、短辺15メートルの長方形の黄土で造った建物で、高さ10メートルの壁の中はいまはただの広場だ

玉門関から帰る途中、ついにゴビ灘にはまり、4人がかりで車を押してようやく脱出

河倉故城付近の建物跡に残る2000年前のアシ。土壁の補強材に使った
玉門関から東15キロにある漢代の食糧倉庫「河倉故城」。高さ30メートルの壁が長さ100メートルにわたって並ぶ巨大な建物で、壁の大きな穴は当時から開いている風通しの穴。後ろに疎勒河が干上がってできた沼があり、水鳥が遊んでいた