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花摘泰克
写真 飛田信彦

ゴビ灘の波頭のようなうねりの上に孤影をさらす陽関跡の烽火台。抜けるような青い空に、祁連(きれん)山脈の雪の白さが迫って見えた
 
 私たちの車は、先を行くマイクロバスに遅れまいと懸命に道なき道を走った。前後左右、見渡す限りゴビ灘(たん)の素っ気ない褐色が広がっている。

 「ゴビ」はモンゴル語で砂れきの意味だという。これに海の用語で波荒く航海に危険な海域を指す「灘(なだ)」を付けて「ゴビ灘(たん)」。固有名詞の「ゴビ砂漠」とは別に一般名詞として使う。

 砂丘のようなサラサラした砂ではなく比較的固い地面だが、うねりを見せる限りない広がりが訴える印象は、やはり砂漠である。車は、油断するとタイヤが埋まってぬけだせなくなる。

 玉門関と陽関。二つの貴重な古代遺跡はこのゴビ灘のただ中にある。いずれも2000年前、漢の武帝の西域進出によって築かれた最前線の砦(とりで)の跡だ。

 玉門関はいまの敦煌(とんこう)市街から西北へ90キロ、古代は高昌(こうしょう)国(現在のトルファン)や亀茲(きじ)国(クチャ)に通じる西域北道(天山南路と天山北路)へ向かう。陽関は同じく西南へ76キロ、楼蘭国(ローラン)、于◆(うてん)国(ホータン)がある西域南道への関門だった。
 
 いま、陽関へは道がついているが、玉門関はゴビ灘の原を2時間も走らねばならない。私たちの運転手は蘭州人で、ゴビ灘に暗い。幸い、日本からの観光ツアーが地元の運転手がついたバスで向かうというので、その後にくっついて行くことにしたのだった。

 玉門関は砦一つと近くに巨大な食糧倉庫の土壁、陽関はもっと小さな烽火台(ほうかだい)(のろし台)一つを残すばかりだ。

 唐詩選では王維の「西のかた陽関を出(いず)れば故人無からん」の一句が最も知られるが、ここでは王之渙(おうしかん)の『涼州詞』を挙げたい。出征兵士の孤絶した心境をうたった。

 黄河遠く上る白雲の間
 一片の孤城万仭(ばんじん)の山
 姜笛(きょうてき)何ぞ須(もち)いん楊柳を怨(うら)むを
 春光度(わた)らず玉門関

 現地で話を聞いていたら、この寂寞(せきばく)とした遺跡の周辺に現代の「防人(さきもり)」の哀話があることを知った。

(注)◆は「もんがまえ」に「眞」

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