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淡いとはいえ温和ではない。乾燥した風土を物語る褐色が基調を占め、やはり荒涼とした印象が強い。延々と続く広大な褐色の中に、点在するのがオアシス都市だ。 取材の旅は、蘭州から敦煌(とんこう)まで1250キロを車で行くことにした。 ボンゴ型車に、ガイド役として甘粛省外事弁公室新聞文化処の蒋懐民(しょうかいみん)さん、通訳、運転手、それに飛田カメラマンと私の計5人が乗り込んだ。出発前、蒋さんはミネラルウオーターをどっさり買い込んだ。 車は、標高1500メートル前後の高台を西へ西へと走った。砂れきの地に、まばらに生えるくすんだ緑のブッシュが思い出したように現れては消え、舗装道路ばかりがくっきりと白く伸びる。 左手南側のはるかかなたに、白い雪をいただいた祁連(きれん)山脈の4〜5000メートル級の峰々が視界の限り連なる。反対の北側に合黎(ごうれい)山や馬◆(ばそう)山などの低い山々。その陰には、テングリやパタンチャリンの砂漠が横たわっているはずだ。 |
たまに、道路わきに土塁の崩れて風化したようなものが見える。明代(1368〜1662年)に築かれた長城の跡だ。 河西回廊は、いまから2000年前の漢の武帝の時代、このあたりを勢力下においていた匈奴(きょうど)を駆逐し、武威(ぶい)・張掖(ちょうえき)・酒泉(しゅせん)・敦煌の四つの郡を置いて、西域経営の要衝となった。だが、その後も匈奴をはじめとする異民族と漢民族との奪い合いは続いた。 14世紀半ば、モンゴル族の元を滅ぼし、250年ぶりに漢民族による中国統一を果たしたのが明王朝の初代皇帝・洪武帝。「中華の回復」をスローガンに掲げた民族主義者で長城再建に努めたが、漢・唐代に比べその版図はぐんと縮まった。 嘉峪関(かよくかん)は洪武帝の時に建てた、当時の長城の西端に位置する砦(とりで)である。 (注)◆は「髪」の「友」が「宗」 |