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花摘泰克
写真 飛田信彦

時速50キロで湖面を跳びはねるように走っていたモーターボートが浅瀬に乗り上げ、人力船に。大黄河の巨大なダム湖も黄土の堆積にはお手上げだ=劉家峡ダム
 
 君見ずや 黄河の水
 天上より 来(きた)るを
 奔流し海に到(いた)って
 復(ま)た廻(かえ)らず
(李白『将進酒』)

 詩仙と称される唐代の大詩人は、黄河を気宇壮大にこううたっている。

 東アジアに輝かしい光彩を放った文明をはぐくんだ黄河は、中国の人たちにとって格別の思いを託す存在だった。北方の乾燥地帯から風が運んだ黄土を、黄河がまた運び広げ、文明の土壌を造ってきたのだ。

 しかし、皮肉なことに黄河と黄土は、また、人びとの苦しみと悲しみの源泉でもあった。

 河水が運ぶ土砂は「一石のうち六斗は泥」といわれるほどに多く、ナイル川の3、4倍にもなる。堆積(たいせき)する泥のため河床が上がり、堤はしばしば決壊する。はんらんの記録は、この2000年の間に1500回を超え、河道は26回も変わっている。

  神話時代の帝王禹(う)が、巨大な竜のように暴れる黄河をなだめすかしてせっせと治水に励んで以来、「河を制する者は、天下を制する」というのが、この国の治世の教えであった。
 
 そんな暴れ河だから、河岸に集落があることはめったにない。岸に近づく道さえない。その珍しい例が甘粛(かんしゅく)省の省都・蘭州である。ここでは黄河が町の真ん中を流れている。

 中国大陸の奥深く、青海省の標高四、500メートルの高原からはるばる曲がりくねってきた黄河は、ここ蘭州を通過した後、北を目指す。流れは東西から南北の線に変わる。古来、黄河から東は「中原」に覇を競う漢民族の地、西は西域に通じる河西回廊だった。

 黄河の町・蘭州こそは異域への前線基地、シルクロードへの入り口だと言える。

 −−蘭州から西へ70キロ、黄河上流に造られた劉家峡(りゅうかきょう)ダムの湖で面白い体験をした。快速モーターボートで走っている途中、浅瀬に乗り上げてしまった。

 操縦士が水に飛びこんで船を引いた。水かさはひざ丈ぐらいしかなかった。大黄河に造られた巨大なダム湖での予想外の出来事だ。

 ダムができたのは1967年。31年間に積もり積もった黄土のなせる業である。

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