前漢武帝のころの西域勢力図

 匈奴という、モンゴル系かトルコ系かいまだに種族がはっきりしない騎馬遊牧民族が、中国の史書に初めて登場するのは戦国時代(前403〜221年)の半ばだ。

  中国の歴史は、縦糸が王朝の交代と統一・分裂の繰り返しだとすれば、太い横糸として南の農耕民族と北の遊牧民族との対立抗争がある。宿命的な南北対立の歴史の中で、黄河中・下流域に文明を発達させた漢民族にとって、モンゴル高原に姿を現した匈奴は最初の強敵だった。

 『史記・匈奴列伝』が伝えるその姿は、水と草を求めて家畜にしたがって移動し、城郭を持たない。騎射に長じ、いったん急変あれば巧みな攻戦で侵略する。勝つとみれば進み、逃げるを恥じとしない…実に厄介な敵である。

 穀類や絹をねらって侵入する匈奴と、長城を築いて防ぐ漢民族との戦いは、秦の始皇帝の没後、匈奴の首長が冒頓単于(ぼくとつぜんう)の時代、漢民族が屈辱的な敗北をなめる事件が起きた。

 楚(そ)の項羽に打ち勝って漢帝国を建てた高祖劉邦が歩兵十万を率いて匈奴軍を迎え撃ったところ、白頭山(山西省大同)で冒頓の精兵四十万の重囲に陥り、7日間の後ようやく脱出できるという大事件だ(前200年)。

 和議を申し出た高祖は匈奴に対し毎年絹、真綿、米、酒を贈るばかりでなく、公主(宗室の娘)を単于の夫人とすること、匈奴を兄、漢を弟とする兄弟の約束まで結んだ。

 武帝が登場したのは、こんな屈辱外交が半世紀以上も続いたあとだった。国力は充実し、天才的な名将たちが輩出した。張騫の情報をもとに展開した宿敵匈奴を討つ作戦は次々に成功した。

 黄河の西、いまの甘粛省にあたる一帯は匈奴の支配下にあったが、軍事進攻の結果、漢の領地となった。武帝はここに河西四郡=武威・張掖(ちょうえき)・酒泉・敦煌=を置き、屯田兵や困窮した農民を送ったのである。タリム盆地の西域三十六国に通じるこの要路はシルクロードへの通路として河西回廊と呼ばれる。

 武帝の積極戦略は、西域開拓ばかりでなく、北東は朝鮮半島、南はいまのベトナムの地にまで達し、漢の版図は一気に拡大した。治世五十四年に及んだ武帝を後世の人は「中国の太陽王」と呼ぶ。

 その墳墓は現在の西安から西へ40キロ、麦畑の平野の中にある。茂陵という台形の丘だ。武帝は、自分の墓の造営に即位の翌年から取りかかり死の年まで53年間を費やした。毎年全国の税の三分の一を注ぎこんだという。

 始皇帝に劣らず武帝も、途方もない権力を振るった古代の専制君主だった。シルクロード貿易で得た富も吹き飛んだことだろう。

 西安郊外には、始皇帝の兵馬俑坑(へいばようこう)をはじめ唐の高宗・則天武后の墓である乾陵、楊貴妃が入浴した華清池など名所旧跡がたくさんあって観光客は忙しい目にあうが、茂陵を訪れる人は少ない。

唐の玄宗皇帝が楊貴妃に「春寒くして浴を賜った」華清池に、張騫が西域から持ち帰ったと伝えられるザクロの花が咲いていた

武帝に愛された青年将軍霍去病の墓は武帝の茂陵に寄り添うように造られている。上のあずまやから関中平野を一望できる

西安の繁華街・東大街のにぎわい。真新しいデパート近くの路上で携帯電話のケースを並べる露店が目立った
武帝の墳墓・茂陵。基部が一辺240メートル、高さ46.5メートルの台形をしている。周囲に最愛の李夫人や大将軍衛青ら文武の重臣たちの墓がたくさんある