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前漢第七代の皇帝武帝(在位前141〜87年)は、そのころ中国北辺から西辺にかけて強大な勢力を誇っていた匈奴(きょうど)に対し、それまでの卑屈な外交政策を改め反転大攻勢に出た。 対匈奴作戦の一つは「夷(い)をもって夷を制する」外交策。勢いを増した匈奴によって、中国西辺から追われ現在のアフガニスタン北東部にいた月氏(げっし)と手を結び、東西から匈奴を挟撃しようというのだ。そのために派遣されたのが西域開拓史上有名な張騫(ちょうけん)だった。 張騫以下百余人の部隊は二度も匈奴に抑留される目に遭いながら西域諸国を巡り、13年後に長安(いまの西安)に帰った。月氏との同盟という本来の使命は失敗したが、大旅行がもたらした豊富な西域情報は匈奴攻撃と西域開拓の原動力となった。 なかでも武帝の心をとらえたのは、大宛(だいえん)国(ウズベキスタン・フェルガナ)に産する汗血馬(天馬)の存在だった。優勢な匈奴の騎馬軍団に勝つために、漢や匈奴の馬より大型で足の速い名馬をぜひにも手に入れたい−−。 |
さらに、目指す大宛に二度の長征軍を送り、ついに汗血馬をも手中にした。司馬遷の『史記・大宛列伝』に次のようなくだりがある。「宛はその善馬を出して漢をしてこれを自ら選ばしめ…漢軍その善馬数十匹、中馬以下牡牝三千余匹を取る」。武帝の喜びはどれほどだったことか。 武帝による西域制圧は、漢帝国の版図を飛躍的に広げたうえ西方諸国との貿易も拡大し、世界帝国として雄飛させるものであった。 いま、西安郊外に残る驃騎(ひょうき)将軍霍去病の墓所に、大きな石像が立つ。仰向けになった匈奴を踏みつけて立つ馬の姿は意気天を衝(つ)く漢王朝の気分を十二分に伝える。 ※一日千里を走るという汗血馬は、寄生虫による風土病のため激しい運動をすると四肢の付け根から実際に血を流したという説がある。 |