王昭君の墓からはるか西に約3000キロ。中国・新疆ウイグル自治区のカシュガルの郊外にホージャ墳がある。かつてこの地域に勢力を振るったウイグル族のホージャ家の人々をまつる聖域である。

  訪ねたのは、乾燥地帯のカシュガルには珍しく強い雨が降る日だった。イスラム教の施設のつねとして、具象的な装飾はほとんどない。しかし、外壁の緑のタイルが雨に洗われて美しい。前庭の赤いバラがタイルと鮮やかな対比を描き出し、漢族世界とは異なる世界に踏み入れたことを教えてくれる。

  ここは「香妃の墓」としても知られている。この地新疆も、中国本土の政権にとっては、つねに意のままにはならない異民族の地だった。十八世紀、ようやくここを支配下においた清朝の乾隆(けんりゅう)帝は、ホージャ家に女性を求めた。香水をつけなくてもかぐわしい香りを漂わせるという美女・香妃が帝のもとにはるばる上った。

  ホージャ墳の内部は、大小さまざまな墓で埋まっていた。奥の隅に香妃の墓所もある。入り口わきには、なんと香妃の遺体を北京から運んできたという車の一部まで置かれている。

  実は、香妃は帝の寵愛(ちょうあい)を一身に受けて幸せに暮らし、その墓は北京郊外にあるという。また、香妃は最後まで帝に心をゆるさず、北京で死を賜ったとの言い伝えもある。そしてカシュガルに今も残る墓。いったい、真実はどうなのか。

 「北京へ連れて行かれた美女は、一人だけではなかったのです」。作家の陳舜臣氏は著作「シルクロードの旅」のなかでそう推理する。美女郷として知られるカシュガル周辺からは、多数の女性が北京に召し上げられたはずだという。説得力のある考え方だ。

 たかだか200年前の香妃でもこうだ。2000年前の王昭君についても、多くの悲話が脚色された。本場の京劇はもちろん、わが国の能にも「昭君」があり、川柳もいくつかある。

 漢の元帝は、匈奴の王から女性を求められたとき、宮廷のお抱え絵師に後宮の女性の似顔絵を描かせ、贈る女性を選んだ。後宮の女性は競って絵師にわいろを贈り、実際より美しく描いてもらった。美しく描かれれば、帝は選ばないだろうから。しかし、ひとり昭君はわいろを贈らず、醜く描かれ、帝はこの絵を見て選んでしまった−。

これは、日本の今昔物語集にまで採用された王昭君物語の代表例だ。

  昭君の墓を案内してくれた内モンゴル考古研究所の孫建華研究員は漢族の女性。昭君について聞くと、「漢族と匈奴の平和のために貢献し、文化交流の役割も果たしました。みずから望んで匈奴に嫁いだという話もあります」という答えが返ってきた。

  馬に乗る二人の像の基部には、漢字で「和親」、その左にモンゴル文字で「平和な地域」と書かれている。和親とは、中国の辞書を引くと「封建王朝が周辺各民族と姻せき関係を結んで平和を保ったこと」とある。日本語のイメージよりはるかに重く、具体的な言葉なのだ。この像がつい十年ほど前に建てられたことを思うと、異なる民族同士の融和がいまもなお中国の大きな課題であることをうかがわせる。

  縁組の結果の幸不幸はどうあれ、意思に反して異民族に贈られる運命に遭遇した女性が悲嘆にくれたのは、古今東西まぎれもない真実だろう。だれもが無条件に認める悲劇であればこそ、後世の人々は心おきなく想像力をめぐらし、ときには悲劇を増幅し、あるいは反転させてハッピーエンドを演出した。

  馬に揺られて異境に赴く美女の悲劇。荒漠たるゴビあり、砂漠ありのシルクロードほど格好の舞台はない。

丁寧に補修が行われているためか、ホージャ墳の扉は新築のように鮮やかだ

気分は王昭君。中国の歴史的な観光地では、こうした衣装を用意した記念写真屋さんが活躍している=フフホトの王昭君の墓

ホージャ墳の内部。ドームの下の静かな空間は一族の墓で埋まっている。墓の上に鮮やかな布がかけられていた
新疆ウイグル自治区のカシュガルにあるホージャ墳。ウイグル族の聖域として大切に管理されている。雨のなか、数人の漢族が参観に訪れていた