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嶋田  健
写真 飛田 信彦

奈良・西の京の薬師寺。右の東塔は8世紀に建立された。左の西塔は焼失したままだったが、1981年に再建された。右後方の山は御蓋山(みかさやま)
 
 新緑に染まる奈良・唐招提寺(とうしょうだいじ)の境内に、赤いツツジに守られて小さな石碑が立つ。

 若葉して御目(おんめ)の雫拭(しずくぬぐ)はばや

 俳人・松尾芭蕉は貞享5年(1688年)に唐招提寺を訪れ、この寺を759年に建立した唐僧・鑑真(がんじん)の像と対面した。鑑真和上の目を若葉で拭(ふ)いて差し上げよう−。わずか十七音の一句に、鑑真に対する芭蕉の限りない尊崇と親愛の念がこめられている。

 8世紀、日本の仏教界はまだ歴史が浅く、戒律の確立を迫られていた。朝廷は遣唐使を通じて唐の高僧・鑑真に来日を懇請する。周囲の猛反対を押して鑑真は渡海を決意するが、難破を重ねる。それでもくじけず、ついに6回目の渡航で来日を果たし、奈良に入った。754年、鑑真は67歳だった。

 厳しい航海により鑑真の視力は完全に失われていた。1000年の時間を隔てて芭蕉が拭(ぬぐ)おうとした「御目」は、日本での仏教指導に命を懸けた鑑真の苦難と強固な意志の象徴である。奈良における鑑真の活躍は目覚ましく、来日直後に聖武上皇(しょうむじょうこう)に菩薩戒(ぼさつかい)を授け、東大寺にわが国初の戒壇院を設けた。

 
 鑑真を生んだ唐の仏教界は、645年に玄奘(げんじょう)がインドからシルクロードを経由して膨大な経典を持ち帰り、その翻訳により教学が飛躍的な発展を見せていた。仏教の分野にとどまらず、国力充実した大唐帝国のあらゆる文化が鑑真に代表される渡来人や遣唐留学僧らによって続々と日本にもたらされた。

 鑑真の来日からすでに1200年以上がたつ。唐招提寺の2キロほど北では、いま平城宮の大規模な復元作業が続く。この都は唐の都・長安を模して710年に開かれた。その都跡の土地を国が買い上げ、当時の主立った施設や官庁を再現している。

 昨年には正門の朱雀(すざく)門が復元された。門前の朱雀大路は幅が70メートルもある。見学にやってきた修学旅行の中学生たちが、広過ぎる視野を前に写真を撮りあぐねていた。

 唐招提寺の南隣の薬師寺には玄奘を記念する「玄奘三蔵院」も8年前に完成した。驚いたことに、中央の八角堂には真新しい玄奘像まで鎮座する。実際には玄奘は日本には来なかった。人類が生んだ最も偉大な旅行者のひとりである玄奘も、20世紀末に奈良に招かれるとは、ゆめゆめ想像しなかったことだろう。

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