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嶋田  健
写真 栗本 充則

マルコ・ポーロの古里ベネチア。野菜や飲み物を積んだ船が運河をゆく。街はアドリア海の浅瀬に木製のくいを打ち込み、その上に建設された。市街地は今も自動車の通行が禁止されている。地盤沈下により、潮の加減によって街が冠水する被害が最近深刻化している
 
 イタリアのベネチアといえば、恋人同士が肩を寄せ合うゴンドラをつい連想してしまう。確かにあるのだが、それはごく一部の観光客が乗るものにすぎないことを、実際に運河を見て知った。

 トマトやワインをのせた船がゆく。水上バスもタクシーもある。ごみだけを積んだボートも走る。アドリア海の浅瀬に築かれた街の交通・輸送の主役はこれらの生活船だ。地中海・オリエント交易で繁栄を極め、「アドリア海の女王」と呼ばれてきたベネチアはいまも水の都である。

 1271年、このベネチアを父、叔父とともに東に向けて船出した少年がいた。彼の名はマルコ・ポーロ。3人はベネチア商人の拠点があるコンスタンチノープル(現イスタンブール)を経てペルシャを抜け、中国のカシュガル、ホータン、敦煌を通過し、モンゴル族のフビライ・ハーンが支配する元朝の大都(北京)にまで達した。ユーラシア大陸を横断する大旅行だった。

 3人は25年後に帰国する。すでに40歳を過ぎていたマルコはベネチアとジェノバの戦争に巻き込まれ、獄につながれる。暇にあかせて冒険談を語り、それが本になる。『世界の記述』、別名『東方見聞録』である。

 
 ベネチアにマルコゆかりの地がいまもあるというので訪ねてみた。小さい広場を囲んで古い住宅が並ぶ。「ミリオン(100万)」と書いた地名表記がある。釈放されたマルコの語る旅行の思い出は大ボラとして嘲笑(ちょうしょう)の的になった。やたらに大きな話をするので「100万」のあだ名がついたという。

 実はマルコは中国には行っていない、『東方見聞録』は人から聞いた話をまとめたに過ぎない−と主張する研究者もいる。当然触れるべき万里の長城やお茶に関する言及がないことなどを理由にしている。もちろん、本当に行ったと見る研究者の方がはるかに多いのだが、マルコは700年を超えてなお世間を騒がせている。

 物笑いのタネになる一方、東方にあふれる絹、玉(ぎょく)、黄金などに関する詳細な記述は、好奇心あふれる人々を確実にとらえもした。古くは15世紀のコロンブスがこの本で「黄金の国ジパング(日本)」を知り、船出した。近くは今世紀初めに中国奥地などを探検した英国の考古学者スタインらも熟読して現地に向かった。

 ベネチアが生んだマルコ・ポーロとそれに続く人々の大旅行は、ヨーロッパが東方に対してつねに寄せ続けた憧憬(しょうけい)の強さを物語っている。

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