1人の男がやってきて、マスジェドの中で私たちと一緒に行動していた少年をつまみ出そうとした。通訳と私とでかばったが、男のけんまくは強く、少年は私たちに合図しながらおとなしく外に出た。

 少年は12歳。といっても体が小さく、8、9歳にしか見えない。マスジェドに向かう途中、いつのまにか私たちの横をニコニコしながら歩いており、なんとなく行動を共にすることになったのだが、みすぼらしいなりで靴磨きを仕事にしていた。

 「父さんが麻薬を使って刑務所に入り、母さんは働いていない。妹が5人いて、僕の稼ぎで食べているんだ」。身の上話はできすぎている気がしないでもないが、テヘランからついている通訳はこの少年の言うことはたぶん本当だろうと言う。

 それより何とも控えめで賢そうで、魅力的な子供だった。マスジェドで礼拝が始まるのを待つ間、靴を磨いてもらい、お金のやり取りはそこでは目立つからあとで外に出てから、という約束だった。

 少年をつまみ出した男は、私たちがカメラを向けたりしているものだから、「こんな貧しいみなりの子供がイランの子供として紹介されてはかなわない」と考えたらしい。礼拝が終わって場外に出ると、少年はちゃんと待っていた。お金を多めに渡して食事に誘ったが、丁重に断られた。

 故ホメイニ師によるイラン革命がおこり(1979年)パーレビ王朝が倒れて20年、ホメイニ師死去から10年。国民生活は比較にならないほど向上しているが、一方でイスラム教シーア派の保守主義に対して自由化を求める反発の声が高まるばかりで、保守派は外国人の取材にも神経をとがらしているようだ。

 シラーズはイラン南部の豊かな州、ファールス州の州都。「バラ(イランの国花)とワインと詩で有名な都市」と政府観光局のパンフレットは宣伝する。この地に住み、霊廟(れいびょう)がある700年前の大詩人サーディは「この世のすべては神の創造物。王も貧乏人も違いはない。なぜなら両者ともに神の前ではひざまずかねばならないから」とうたった。私たちの運転手は「20年前は王様しかいなかったが、いまは詩のうたう通りだ」
と言った。

 シラーズから北東60キロの地に、有名なペルセポリスの遺跡がある。

 時代は一気に紀元前330年にとぶ。アケメネス朝ペルシャが、ギリシャ・マケドニアから遠征してきたアレクサンドロス大王によって滅ぼされた。ペルセポリスはその宗教(ゾロアスター教)祭祀(さいし)のための都市だった。

 イラン高原に興ったペルシャ人(イラン人)のアケメネス朝の帝国ほどイラン人の誇りや民族意識をかきたてるものはないだろう。

 その版図は西はバルカン半島東部からエジプト、東はインド・ガンダーラ地方にまで及ぶオリエント世界の大帝国だった。諸国はこぞってひれ伏し朝貢の使者を送っていた。

 イラン人は、イスラム化したあとも過去の栄光を忘れることなく、イラン人としての自己確認を帝国の時代に求める。それはホメイニ師の革命前も革命後も変わらない。

 アレクサンドロスによって焼き払われ、廃墟(はいきょ)となったペルセポリスは、1931年から行われたシカゴ大学東方研究所の調査でその詳細が明らかになった。79年に世界遺産の指定を受けている。

ペルセポリス宮殿の記念門。最上部に帝王、その下に兵士たちのレリーフが彫られている

集団礼拝に集まったシラーズの老人たち

マスジェド(集団礼拝場)からあふれだして祈りをささげる人たち
ペルセポリスの遺跡にある宮殿の百柱の間。帝国支配下にある25の国・属州の朝貢品を帝王が受け取る場所で、正面に16本の柱廊があり、奥の大広間に100本の石柱があった