イラン高原の中央に2000千年の歴史をつづるオアシス都市イスファハンが最も輝きを見せたのは、サファビ朝のシャー・アッバス一世(在位1587−1629年)の時代だった。

 それはアラブ人による長い支配から脱して約800年ぶりに実権を回復したイラン民族が、かつてのササン朝ペルシャの栄光を一気に取り戻したかのような勢いだった。

 現在残る名跡の大半はこの時代に造られた。まず市街地の中心にあるイマーム広場を見てみよう。アッバス一世が数十年がかりで建造した広場はポロ競技に使われたもので、南北510メートル、東西163メートルの長方形。周囲を2階建ての回廊が囲む。回廊にそって並ぶ建物は当時は臣下たちの住まいだったが、現在は200軒の土産物店になっている。

 広場の南にあるのが青いドームのイマーム・モスク。鍾乳(しょうにゅう)石を使い、天井、壁の内外を彩るのはカリグラフィー(装飾文字)とアラベスク(幾何学模様)を組み合わせた装飾豊かなタイルだ。

 アラーの神に祈る場であるモスクを飾る文様には人間や動物、具象的な自然は登場しない。それらは神のみが造ることのできるもので、人間が描くことは許されない。抽象性が高いデザインに囲まれていると、それだけ荘重な気分が高まるだろう。

 西にはアッバス1世の4人の正妻の住まいだった6階建てのアリガプ宮殿。最上階は音楽堂で天井と壁が二重構造になっている。内側の壁に弦楽器形の穴が開いていて反響音を防ぐという手の込んだ建築だ。また、広場の東には王室専用の精巧極まるモスクが建ち、向かい側の宮殿とは地下道で結ぶという、ぜいを尽くした造りである。

 イスラム建築と対照的なのがアルメニア人居住区にあるギリシャ正教会だ。アルメニア人は黒海とカスピ海にはさまれたコーカサス山脈の南が本拠地。当時、ワイン仲買人としての勤勉さを買って、アッバス1世は彼らをイスファハンに連れてきて住まわせた。

 ギリシャ正教会は14もある。中でも有名なバンク教会は、イスラム風ペルシャ様式とヨーロッパ・キリスト教様式が混合した建築物の内部がさまざまなキリストの絵で飾られ、現世の天国を再現する。イスラム教徒の見学者も多く、私たちが訪れたときは女子高生の一団が見学していた。

 イランも多民族国家だ。イラン人は全人口の46%を占めるだけで、ほかにトルコ人、クルド人、アラブ人、ユダヤ人などがいる。イスラム原理主義の国でもキリスト教もユダヤ教も認知されているのだ。

 イランといえばじゅうたんだが、更紗も特産物だ。ゲイサリエ・バザールの店に名工ハジ・レザさん(67)を訪ねた。日本の小学生向けの本でも紹介されている人だ。木綿の生地に木のスタンプをスッスッと押して、模様を印刷していく。

 何げない作業だが、そこがこの道55年の名人芸らしく「おれの作ったものは決して色落ちしない」と胸を張る。染料は貴石ラピスラズリから採った青、クルミの皮からは黒、ザクロからは黄色といった具合だ。

 街を車で走っている時、小学生の男の子たちが乗るバスと並んで走る場面があった。一人の男の子が窓から身を乗り出してさかんに何か叫んでいる。「オシン、オシン」と聞こえた。

 通訳が「そうです。NHKのドラマ『おしん』がいまイランで毎日昼に放送されているのです。みんな泣きながら見てる」と説明した。ベトナム、中国、イラン、「おしん」が発信する日本人像はまだ世界に流れている。

アリガプ宮殿からイマーム広場を見る。向かいのモスクは王室専用で、イスファハンで最も精巧、壮大な建造物だ

ギリシャ正教会を見学に来たイスファハンの女子高生。引率の先生が「写真はだめ」としきりに制するスキをねらってカメラを向けると、みんなうれしそうに表情をつくった。戒律厳しい世界も自由化が若い人から進んでいる

アルメニア人居住区にあるギリシャ正教バンク教会の礼拝堂。女子高生たちは異教徒の壮麗な文化に目を奪われていた
イスファハンの郊外にある17世紀のキャラバンサライ。現在イランに残るキャラバンサライのほとんどは軍か警察の施設になっている。ここも城壁のような壁の上に小銃を持った警察官がいた