中国の歴史には、農耕定着民族の漢族を北方の遊牧騎馬民族が征服・統治する「征服王朝」が何度も登場する。契丹族が建てた遼王朝もその一つだ。

 ただ、同じ征服王朝といっても、征服はしたものの文化水準が低いため漢族の文化・社会に同化し吸収されるタイプと、同化する側面を持ちながらなお独自の文化を創造して自己を見失わないタイプがある。

 吸収された例としては五胡十六国時代の四世紀に華北を統一した鮮卑(せんぴ)族の北魏があり、逆の例としては、宋を南に追いやった女真族の金、モンゴル族の元、女真族(のち満州族と呼ぶ)の清などがある。契丹文字を作った遼は、独自の文化を保持する征服王朝の系譜のさきがけだった。

 現在の内モンゴル自治区の北東部に故地を持つ遼が国を建てたのは916年。唐がその直前の907年に滅んでおり、漢族の混乱に乗じてマンチュリア(中国東北地区)、燕雲十六州(大同、北京)からモンゴル高原の東南部にまで勢力を伸ばした。

 960年にようやく中国の統一を果たした宋が北に進出しようとしても、強大な軍事力を持つ遼は終始圧倒し続けた。のちに両者の間に結ばれた平和条約にしても、宋は遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を贈るという一項があり、その優勢ぶりが分かる。

 陳国公主墓は、こうした遼が最も勢い盛んだった11世紀初めに造られている。モンゴル高原をルートとするシルクロード交易は契丹族の生活を多彩に豊かにしたであろう。宋が北辺を遼に押さえられ、北西辺をトルコ語系のタングート族の西夏にふさがれ、シルクロードへの道を閉ざされていたことを考えると、唐の時代とは大違いだ。

 墓は市街地からぐんと離れたへんぴな丘陵地にある。保護の予算がつかないのは観光地として成り立たないことも理由のようだ。日本人が訪れたのも、私たちが初めてということだった。

 取材を終えて車で戻る途中、シラカバ林をいくつか見た。幹が細く、頼りない。枝は強風にあおられ続ける結果、全体によじれていて哀れだ。草原の砂漠化を防ぐために植林したものだという。シムタ・ジャリム盟博物館長が「このあたりはカラチン草原というのだが、いまはカラチン砂漠です。地下水が不足して砂漠化が進んでいる。毎年5%ずつ進む」と話した。シラカバの木の下も下草というものが生えていず、裸の地面がむき出しだ。

 宿泊地としたのは、ジャリム盟で最も大きい市である通遼市。遼が首都を置いた上京臨◆府(じょうけいりんこうふ)はその北西300キロ、より高地にあった。通遼の人口は約百万人でその3分の1がモンゴル族。ジャリム盟文化局の李久春局長が「モンゴル族ののど自慢大会があるからぜひ聴いてください」と誘う。

 会場はいす席が50人分程度の古ぼけたれんが造りの建物だったが、立ち見の客が数十人もいて盛り上がっていた。戦後まもない日本ののど自慢大会もこんな雰囲気だったのだろうか。

 出場者は民族衣装に着飾った人がいれば、全くの普段着の人もいる。地区随一の歌い手という60歳くらいの男性がマイクの前に立った。聴いていると、メロディーが日本民謡『相馬盆歌』にそっくりなのに驚いた。本で読んだことがあるが、日本民謡には大陸から入ったものがかなりあるという。

 そのあと、立て続けに三組が「日本から来た新聞記者を歓迎して」と、『草原の歌』やら千昌夫の『北国の春』をモンゴル語で歌ったりしてくれて応接に忙しい目にあった。『北国の歌』は中国のどこに行っても日本の歌の一番人気である。

(注)◆は「さんずい」に「黄」


モンゴル族のど自慢大会でデュエットする民族衣装の出場者

トラクターに人が満載。よく見かける風景だが、この時は15人くらいも乗っていてさすがにびっくりした

強風が砂あらしになってしまうようなモンゴルの草原地帯。砂漠化が年々進んでいる