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花摘 泰克
写真 飛田 信彦

(上)遼陳国公主墓の前室西壁に描かれた契丹人の絵を点検する内モンゴル自治区文物考古研究所の孫研究員。10年ほど放置され損傷が激しい
(左) 発見当時の公主(右)とその夫の遺骸。金のマスクのほか、金の帽子、銀の靴、玉の飾りなどが見える
 
 1983年夏、中国・内モンゴル自治区東部のダム建設工事現場で、一つの墳墓が土の下から現れた。11世紀初頭の遼(りょう)王朝の墓だった。

 さらに1985年、二つの墓が相次いで見つかり、その3号墓から膨大な量の副葬品が出土して考古学の宝庫であることが分かった。

 遊牧騎馬民族・契丹(きったん)族が中国北部に建てた遼の時代の研究に、画期的な発展をもたらした「遼陳国公主墓」の発見である。

 墓には、遼の封国の一つである陳の公主(王女)とその夫の遺骸(いがい)が眠っていた。墓誌に「享年(きょうねん)18歳」と記されている公主は、それ以前に30歳弱で死亡したと推定される夫と二人仲良く寄り添って横たわっていたが、発掘者を驚かせたのは顔がかぶっていた純度の高い黄金のマスクだった。

 古代エジプトの少年王ツタンカーメンのマスクを連想させ、工芸技術の水準の高さを伝えるものだ。

 
 公主墓からは、ほかに金、銀、銅の馬具や皿、玉(ぎょく)や琥珀(こはく)の装飾品、ガラス瓶、陶磁器など290点余りが見つかった。それらの品々は騎馬民族の生活様式を伝えるとともに農耕民族・漢族の文化の浸透を物語る。そればかりか、玉やガラス製品の存在は、中央アジア、西アジアのイスラム世界とシルクロードを通して密接な交流があったことも語っていた。

 墓は内モンゴル自治区の東部、遼寧省との境に近いジャリム(哲里木)盟ナイマン(奈曼)旗=「盟」「旗」ともに自治区の下の行政単位=にある。発掘に携わった内モンゴル自治区文物考古研究所の孫建華研究員とジャリム博物館のシムタ館長に案内してもらった。

 「遺骸が見つかった時は興奮で体が震えました。盗掘防止のため夜、銃を持って見張り番をしたのです」。シムタ館長は当時を懐かしげに振り返るが、現在、丘陵地帯にある墓は荒れるにまかせるままだ。副葬品は収蔵したものの、墓を保護するまでの金がないという。

 1,000年前、北京を含む華北から中国東北部、外モンゴルにまで強勢を誇って、漢民族を脅かしていた精かんな契丹族も12世紀初めの遼滅亡ののち、女真(じょしん)族やモンゴル族、漢族にのみこまれ、時間のかなたにかすんでしまう

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