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嶋田  健
写真 北野  清

ホータン郊外の農家の庭で、ウイグル族の子供たちが繭の手入れをしていた。明るい日差しを反射する繭はまぶしいが、その輝きはあくまでもやさしい
 
 タクラマカン砂漠の南に接するホータンのまちの郊外に、白い繭(まゆ)が輝いていた 。

 ウイグル族の子供たちが、繭についたごみを忙しそうに取り除いている。傍らでは、二人の女性が熱湯のたぎる大釜で繭を煮ながら糸繰りをしている。しわだらけの手を小刻みに動かすゼナプサンさん(83)は「もう70年もやっているよ」と言った。裏庭では絹糸の草木染め、室内では機織りがすべて手作業で行われていた。


 家主のトルエリさん(31)は、この手作りの絹織物業をつい最近始めたばかりだという。中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区の奥地のホータンにも、わずかながら中国・中原(ちゅうげん)からの漢族や外国人の観光客が来るようになった。手作りが受け、現金収入につながる点に着目した。辺境の地でも「社会主義市場経済」は着実に動き始めている。

 ホータンには中国西部きっての大きな絹織物工場もあった。入口に掲げられた「新疆和田絲綢廠(しちゅうしょう)」の字は、ここを視察した江沢民国家主席が筆をとった。従業員は2,800人にも上り、約8割がウイグル族の女性だ。着ている服の素材を聞くと、さすがに「絹」と答える人が多い。製品は米国、日本、ロシア、パキスタンなどに輸出されている。
 
 国有企業のつねとして、この大工場も効率の悪い経営の改革を迫られている。中国全土を覆う人件費削減のための「下崗(シアカン)(一時帰休)」の嵐(あらし)について聞くと、漢族の若手幹部はしばらく沈黙したあと「もちろん私たちも取り組んでいます」と答えた。

 古代ローマをはじめとする西方世界は、絹の存在とそれが東方の国からもたらされることを紀元前から知っていた。いくつもの隊商の手を経て、絹は砂漠を越え、海を渡って東から西に伝わった。見返りとして金貨、ガラス器、香料などが西から東に運ばれた。

 ドイツの地理学者リヒトホーフェンは、1877年に出版した著書のなかでユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を「ザイテンシュトラーセン(絹の道)」と呼んだ。これが英訳されてシルクロードと呼ばれるようになった。

 漢語ではシルクロードのことを「絲綢之路(しちゅうのみち)」と呼ぶ。絹織物工場のパンフレットは「ホータンは絲綢之郷(しちゅうのさと)」と書いていた。

 通過点ではない、ホータンこそは絹の里である、そんな心意気が伝わってくる言葉に読めた。

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