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アシガバートからメルブへ向かう途中、ところどころで台形をした小高い丘が見られた。「テペ」と呼ばれる原始農耕社会以来の集落跡だ。
集落の適地としては、水が得られ、外敵が襲いにくく、水害も少ないといった条件が必要だが、中央アジアではそんな土地はそう多くはない。そこで一つの集落が放棄されても、そのあとにまた新しい集落がつくられることがしばしばあり、何千年にもわたってそれが繰り返され、ついには小高い丘になる。最古のものでは8,000年前という。
運転手のヤズモフさんが追加して説明した。「時代が下ってシルクロードの行き来が盛んになると、隊商の道案内はテペに上って行く先の道筋を探した」
道路わきのこげ茶色のブッシュの中に時々、真っ白に雪の降り積もったような部分が見え隠れする。聞いて驚いた。土中の塩が噴き出したのだという。
トルクメニスタンの国土は48万8.,100平方キロ(人口448万人)。日本よりひと回りかふた回り大きいだけだが、その8割は黒っぽい砂地が広がるカラ・クムだ。大運河のおかげで緑化が進み綿花栽培が主産業になったとはいえ、残雪にも見まごう塩の白さは厳しい不毛の地の存在を語るに十分である。
トルクメニスタンは旧ソ連領の中でも最も気候の差が厳しい。晴れの日が1年間に260日もあり、夏の日中の平均気温は35度という暑さだ。果物や野菜は1年に4回も収穫できる。その代わり、冬はマイナス10度近くまで下がる。
古代遺跡メルブは総面積670ヘクタールという広大なものだ。二千数百年にわたってイラン、ギリシャ、アラブ、モンゴル、トルコなどの諸民族が興亡を重ねてきた地には、日干しれんが造りの高い城壁や宮殿の跡、タイル張りのイスラム古寺などが点在している。
紀元2世紀にさかのぼる仏教寺院の跡もある。インド・ガンダーラ地方から西に伝わった仏教の最西端の遺跡として大きな意味を持つ。面白いのは、製作年代が5世紀のイラン製のつぼ。結婚、狩猟、葬送のさまがゾロアスター教徒の生涯として描かれており、中に仏教の経典が入っていたところから、二つの宗教の共存がうかがわれるという。
アシガバート近郊に遺跡があるニサは、パルティア王国(紀元前3世紀−紀元後3世紀)の最初の首都として栄えた都市だった。中国の史料では「安息」と呼ばれたパルティアは、古代ローマがカエサルを含めた第一次三頭政治時代の紀元前53年、その一人クラッススが侵入してきたのを大敗させ(カレーの戦い)、クラッススは戦死、捕虜一万人に上るという勢いを示している。
ニサからの出土品には、古代ギリシャ彫刻の影響を受けた大理石の女性像や象牙(ぞうげ)細工のリュトン(先端にケンタウロスやグリフォンなど想像上の獣の飾りが付いた杯)がある。まさにギリシャと東方の文化が融合したヘレニズムの遺産だ。
トルクメニスタンには32もの民族が住むというが、人口の68%はトルコ系のトルクメン人が占める。宗教は、10%のロシア系がギリシャ正教であるほかはほとんどがイスラム教。
私たちの運転手ヤズモフさんもトルクメン人でイスラム教徒だが、平気で豚肉のシシカバブを食べ、酒を飲んだ。「ソ連時代に軍隊に行きましたから。ロシアの軍隊ではイスラムの教えも何も通りません」と話した。民族の文化はこうして変容していくものらしい。
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