ウズベキスタンの首都タシケントからプロペラ機にガタガタ揺られて約1時間、フェルガナ空港に着いた時は夜の9時を回っていた。タラップを降りたあとは空港ビルに入らず、ゲートを抜けて直接外に出た。猫の額ほどの空港駐車場に街灯がなく、人の顔は間近に鼻を突き合わせるようにしてようやく見分けられた。

 一緒に乗ってきた乗客たちが次々に迎えの家族とともに散っていくのに、私たちのガイドはなかなか現れない。周囲のざわめきが去ったころ、いきなり耳元で「ヤポンスキー?」と野太い声がうなった。びっくりして振り向くと、まゆの濃い立派な顔立ちの中年男がぬっと立っていた。ガイドのサイードさん、50歳だった。

 サイードさんの車で30分ほど走って着いたホテルジョラトは、人口35万のフェルガナ市一番のホテルだ。部屋は、電話がある部屋と、電話はないがスチーム暖房がよく効く部屋と、電話がなく暖房もあまり効かない部屋とがあって、私に割り当てられた部屋は三番目の部屋だった。白黒のテレビがあって一局だけかろうじて映った。ふろは全室浴槽がなくシャワーだけだ。一泊、日本円で3,000円くらい。物好きな日本人観光客もここまではなかなか来ないらしい。

 アフシケントの遺跡はフェルガナ市から北へ約100キロ、ナマンガン市の郊外に位置している。アラル海に注ぐ大河シルダリアの上流のほとり、丘の上にある。紀元前7、8世紀から紀元後13世紀までフェルガナ地方の都として栄えた。

 この地も他の中央アジアの古いオアシス都市と軌を一にしたような歴史をたどっている。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王のマケドニア軍による攻略、同2世紀の漢軍の侵入、紀元後は8世紀にアラブ人の侵入、そして12世紀のモンゴル軍による徹底的な破壊だ。

 住民は当初ペルシャ系だったのが、アラブ人の侵入と前後してトルコ系とアラブ系が支配的になった。18世紀にトルコ系のウズベク人の王国が勢い盛んだったが、19世紀後半にはロシア帝国に征服された。現在、ウズベキスタン全体ではウズベク人が約70%を占めている。ガイドのサイードさんも黒髪、黒い目で彫りが深い顔立ちのウズベク人だ。

 漢の武帝が狂喜した汗血馬を生んだフェルガナには現代の競走馬としてコラバイエルという種がいる。これがどういう出自なのか、フェルガナスポーツ協会所属のきゅう舎を訪れて聞いてみたがどうも要領を得なくて分からない。ただ汗血馬の直系の子孫でないことだけは確かなようだ。

 遺跡を見学したあと、近くのチャイハナで昼ご飯を食べた。チャイハナはカフェテラス方式の軽食喫茶の店。中央アジアのいたるところにある。チャイは「茶」で緑茶と紅茶がある。大きなコイの空揚げを指でむしって食べた。あぶらがのっていてうまかった。

 住民が自慢するのが、全長286キロに及ぶウズベキスタン最長のフェルガナ運河。シルダリヤから水を引いたもので、この地方一帯の緑を養う。造成は第二次世界大戦が始まる直前の1939年春。延べ16万人が動員された。当時のソビエト政権の命令で、荒地を緑の大地に一変させようという社会主義政策。「機械がなかったから掘るのも堤を築くのも全部手作業だった」(サイードさん)が、わずか45日間で完成させたという。

 運河のおかげで主産業となっている綿花の畑は、私たちが訪れた12月中旬、取り入れはとっくに終わっていた。燃料にするため赤茶けた茎のかたまりを刈り取る作業風景が見られた。

イスラム神学校に礼拝にきたウズベク人。白い線が入った帽子や厚ぼったい上着に民族の特徴が表れている

綿花畑では、収穫を終わったあとの綿の茎や葉は燃料に。刈り取りは農家の主婦の作業のようだ

ウズベキスタン最長の運河、フェルガナ運河。両岸のポプラ並木が美しい
12世紀、モンゴル軍に滅ぼされたアフシケントの遺跡。日干しれんが造りの兵営、浴室、排水溝跡などが残るが、発掘調査の後、野ざらしのままなので、年々風化している