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花摘 泰克
写真 飛田 信彦

雪のパミール高原を背景に馬を走らせるウズベク人の農家の少年。馬は2歳馬、少年たちは14、5歳だ
=フェルガナ盆地北部のナマンガン市郊外
 
 天山山脈をはさんで東の中国側と西の中央アジアを、シルクロードという交易の道で結んだのは、紀元前2世紀、中国の漢王朝を治めていた武帝だった。

 武帝がシルクロード開拓に手を染めたきっかけは、西域の大宛国(だいえんこく)に生息する汗血馬(かんけつば)を手に入れようとしたためだ。走るときには血の汗を流すという汗血馬は一日に千里を走り、天馬の子孫と伝えられる。

 当時、北辺の騎馬民族匈奴(きょうど)が万里の長城を越えてたびたび漢を侵略してきた。武帝は、その対抗策として西域に使者、張騫(ちょうけん)を派遣する。匈奴によって西域に追いやられた月氏(げっし)という民族と同盟を結ぶためだ。大宛の名馬の話はこの張騫によってもたらされた。

 武帝は、大宛に使者を送り、馬を譲ってくれるよう頼んだが、使者は殺された。怒った武帝は将軍李広利に大軍を与え2回にわたって大宛を攻略させ、汗血馬を奪うのに成功した。シルクロードは、この名馬争奪戦に前後して匈奴討伐に派遣された漢の軍隊によって開かれた道である。

 
 大宛国は天山山脈の西、パミール高原の北、フェルガナ盆地にあった。現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの中央アジア諸国にまたがる地域だ。

 その首都は、フェルガナ盆地の北部、ウズベキスタン領のナマンガン市近郊にあったとされ、現在はアフシケントの遺跡として発掘調査が進められている(現在のフェルガナ市はその南方に19世紀にロシア人によって建設された)。

 漢代のフェルガナについて、司馬遷の『史記大宛列伝』がその豊かさを伝えている。田を耕し、稲作麦作が行われ、人々はブドウ酒を醸造し、良馬が多い。大小70余りの城、つまりオアシス集落があり、人口は数十万人、武器は弓と矛で騎射をよくすると記している。

 武帝の遠征から2,100年。いまのフェルガナは、第二次世界大戦前夜に造られた大運河の恩恵に浴して、緑のじゅうたんを敷きつめたような肥沃(ひよく)な土地が広がり、綿花畑やブドウ園が豊かな実りをつける。

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