アレクサンドロス大王がサマルカンドを攻め落とした時、抵抗したソグド人の死者は3万人にのぼったという。しかし、一方でアレクサンドロスは将兵にソグド女性との婚姻を奨励するなど住民との融和に努めたので、土着のアジア・ペルシャ文化とギリシャ文化が融合してヘレニズム文化が生み出された。

 大王の死後、サマルカンドを中心とするソグディアナ一帯は周辺の諸民族の乱入による混乱が続くが、その間にソグド人はしだいに東西貿易に従事する商人として優れた才能を発揮するようになった。シルクロードの各地に進出し、東は現在の中国新疆ウイグル自治区にまで及んだ。

 中国の唐代の史書はソグド商人について「生まれた子供の口にミツをくわえさせ、手にニカワを握らせるが、それは大きくなってから口から甘い言葉を吐き、銭が手にニカワのようにへばりつくのを願ったからだ」と伝えている。

 この毒を含んだ表現も、その優れた商才に対する賛辞と受け止めていいだろう。中国の唐代、長安でのソグド人の商業活動は多くの史書に記されている。また、彼らはその宗教ゾロアスター教を中国に伝え、ササン朝ペルシャ系の文化を東方にもたらした。その影響は奈良・正倉院の所蔵品に見られるように日本にまで及んでいる。

 1965年、アフラシャブの丘の遺跡から一つの壁画が発見された。アラブ人が侵入する以前の7〜8世紀のサマルカンドの領主の屋敷内に描かれていたものだ。サマルカンドを訪れる諸外国からの使節が描かれ、当時の繁栄ぶりがありありと分かる。

 しかし、その繁栄も8世紀初頭、アラブ半島に興ったアラブ人のアッバス朝による征服によって幕が引かれた。圧政、イスラム教への強制的改宗。新興アラブの勢力の前に、古きシルクロードの商人ソグド人はしだいに歴史のかなたにかすんでいった。

 現在、サマルカンドの観光名所となるイスラムの建造物のほとんどはチンギスハーンのモンゴル勢力のじゅうりんを経た後、1370年にチムール帝国の首都となって以降のものだ。

 トルコ系遊牧民出身のチムールは中央アジアを従えると南のインド・デリーを征服、その後、イラン、イラク、シリアから小アジアにも遠征し、北はロシア南部に至るまでユーラシア大陸南西部に巨大な帝国を築き上げた。その帝国の首都は世界一の都でなければならなかった。

 征服者、独裁者の常にも増して、壮麗な建築物の造営に励んだ結果、サマルカンドを「イスラム世界の宝石」と呼ばれる美都に仕上げた。

 町の中心にあるレギスタン広場には15〜17世紀に建てられた三つのメドレセ(イスラム教の神学校)が三すくみのような形で向かい合い、イスラム世界独特の空間を作る。

 その北東、アフラシャブの丘に向かう途中にある中央アジア最大のイスラム寺院ビビ・ハニム・モスクは、チムールの時代の建造。伝説は、妃ビビ・ハニムがチムールのインド遠征を祝って建てたものの、妃は建築家との不倫が発覚して殺されるという悲話を伝える。

 旧ソ連からウズベキスタンが独立して6年余り。それまで弾圧されていたイスラム教が今、息を吹き返している。ビビ・ハニム・モスクをはじめイスラム建築物の修築工事が盛んだ。

 一方でロシア系住民の母国帰還も目立つ。生活苦ということもあるが、学校でロシア語教育が廃止されたため母国語を知らずウズベク語しか話せない子供が出てきたせいだ。

チムール帝国時代に建造された3つのメドレセ(神学校)が見事な調和を見せるレギスタン広場。中央のティリヤ・カリ(金色)のメドレセのドーム内部は全体がまばゆく金色に光っている

ウズベク人家庭の昼のパーティー風景。メーンディッシュは真ん中の大皿に盛ったプロフ。羊肉入りのピラフだ

大規模な修築工事が行われているビビ・ハニム・モスク。手前に大きなバザールがある
14世紀、中央アジアに雄飛したチムールの銅像=ウズベキスタンの首都タシケントのアミール・チムール広場
アフラシャブの丘の遺跡から発掘されたソグド人の壁画。サマルカンドを訪れた各国の使節たちの光景が描かれ、褐色の肌の人や象、ラクダが登場している