−21−

花摘 泰克
写真 飛田 信彦

サマルカンドのシャーヒ・ジンダ廟への階段を上る参けいのウズベク人女性たち。同廟はイスラム教徒の墓地として利用され、チムールの一族を含め代々の王族たちが埋葬されている
 
 近代的なビルの裏に一歩足を踏み入れると、泥土の民家が並ぶ路地が迷路のようにくねっている。青い空に、さらに青いドームをいただく壮麗な中世のイスラム寺院が浮かび上がる。街のはずれには土くればかりの古代都市の廃墟(はいきょ)−−。

 ウズベキスタン共和国サマルカンドのこの混然とした景観は、シルクロードの十字路、最も重要なオアシス都市の一つとして治乱興亡を重ねてきた複雑な歴史をそのまま物語っているようである。

 この地に都市が築かれたのはおよそ2,500年前。現在の市街地の北東にあるアフラシャブの丘にあって、住民はイラン系のソグド人であり、一帯はソグディアナと呼ばれた。

 しかし、このアフラシャブの都市はその後、世界史を彩る英雄たちによって幾度となくじゅうりんしつくされる。

 紀元前4世紀のアレクサンドロス大王による攻略。紀元後8世紀のアラブ人の侵入、そして1,222年、チンギスハーンがやってきた。アラブの歴史家はモンゴル人の軍隊について「男を殺し、女を殺し、子供を殺した。妊婦の腹をさき胎児を殺した。虐殺の炎は風が運んでくる雲のようにすべてを覆いつくした」と記している。

 
 オアシス都市の命である地下水路カレーズをはじめ、ありとあらゆるものが葬り去られた都市は二度と復興することはなかった。

 アフラシャブの丘の南に新しいサマルカンドが姿を現すのは、150年も後、チムール大帝の帝国の首都としてだった。

 「チンギスハーンは破壊し、チムールは建設した」という言葉が残っている。現在のパキスタン、イランから黒海沿岸までの大帝国を築いたチムールはこの都を世界一の美都にしようとした。遠征するたびに、その地の著名な建築家や芸術家を連れてきて都造りに従わせた。

 いま、この町に残る古い建築物のほとんどはチムールとその後継者の時代に造られたものだ。

 バザールが立ち、キャラバンサライ(隊商宿)が設備されていた。ペルシャから、アフガニスタンから、中国から、ガラス、じゅうたん、香料など豊かな物資を満載したラクダをひく商人の隊列が引きも切らなかったころ、その面影が今も町のそこかしこに残っている。

詳細地図