イスラマバードからペシャワルに向かう途中、ちょうど中間のアトックのまちでインダス川を渡った。

 4,000年以上前に栄えたインダス文明をはぐくんだアジア屈指の大河川である。源流ははるかに遠いチベットの山々、あるいは中国・パキスタン国境のカラコルム山脈にそびえる世界第二の高峰K2(8,611メートル)。11月という季節のせいか水は少ないが、河床の幅は数キロはありそうだ。対岸は土色の地平線にとけ込む。

 紀元前326年、マケドニア・ギリシャ連合軍を率いた30歳のアレクサンドロス大王は、ペルシャ帝国を倒した余勢を駆ってさらに東征し、アトック周辺でインダス川を渡った。大王は意気盛んだったが、カラコルム、ヒンズークシ山脈の雪解け水を集めた激流に多くの部下は戦意を喪失した。渡河して間もなく大王は心ならずも反転を決断する。大王がバビロンで急死したのは、このわずか3年後だった。

 大王の遠征は、当然ながら殺りくと破壊の日々だったが、同時に地中海からインド亜大陸に至る広大な地域にいくつもの「アレクサンドリア」のまちを建設し、ギリシャ風のヘレニズム世界を現出させる創造的な大事業でもあった。

 大王が生まれる200年ほど前、インドでは釈迦が仏教を開き、その教えはじわじわとインド亜大陸周辺に広がっていた。ガンダーラでは、1世紀にイラン系民族がクシャーナ朝を建て、2世紀半ばにはカニシカ王が都をペシャワルに定め、仏教を保護した。

 意外にも当時のインドに仏像はなかった。地元の信者にとって釈迦はあまりにも聖なる存在であり過ぎ、その姿をモノとして固定する発想は生まれなかったのだろう。しかし、ガンダーラは違った。ここには合理主義を背景に写実的に美を追求するギリシャ文明がおよんでいた。東から来た仏教が西から来たギリシャ彫刻と出合い、仏像が生まれた。

 抽象的な教義と違い、目に見える形で信仰の対象が示されたのだ。仏像を得て仏教は大きく飛躍し、ガンダーラからパミール高原を越え、中国、中央アジアへと広がった。シルクロードは「仏教の道」でもあった。

 屋外のけん騒と隔絶されたペシャワル博物館は、無数のガンダーラ仏で埋まっていた。カールした髪、高い鼻、優美に曲線を描く服。ギリシャ彫刻の濃厚な影響は明らかである。

 仏像に見入っていると、1人の男が近づいてきてささやいた。「300ドルで仏像を買わないか。もちろん、本物だ」。約3,6000千円。世界の骨とう市場でガンダーラ仏の人気は高く、本物であればけたが二つも三つも違うだろう。それに、パキスタンの至宝であるガンダーラ仏の持ち出しを税関が許すはずがない。笑って無視した。「そうか、ならば博物館の図録を買わないか」と展示室わきの部屋に入って一冊持ってくる。まさか、博物館の職員…。

 あふれるエネルギーをほとばしらせたアレクサンドロス大王の侵攻をガンダーラへの西からの衝撃とすれば、はるか東からの武力の奔流もあった。

 唐の武将・高仙芝は8世紀の半ば、玄宗の命を受け、パミール高原からガンダーラ北部のダルコット峠を駆け下り、ギルギットの小勃律国を討った。この大胆な峠越えを、英国の考古学者オーレル・スタインは「ハンニバルやナポレオンのアルプス越えをしのぐ壮挙」と絶賛した。この高仙芝は朝鮮半島の高句麗の人である。巨大帝国・唐の国際社会ぶりがうかがえる。

 東西文明の接点にある地は、往々にして英雄たちに歴史的なひのき舞台を提供するものらしい。

 つわものどもの夢が消えたいま、ガンダーラに仏教はなく、偶像を否定するイスラム教一色である。ここに住む人々が、東洋の果てからやってくる偶像崇拝の仏教徒を、商売のカモとしてもてあそぶのも致し方ないことなのだろう。

トルコ・イスタンブールの考古学博物館には「アレクサンドロス大王の棺」が展示されている。小型トラックほどの大きな大理石の棺側面に大王(左)の雄姿が浮き彫りされている。この棺、本物ではないらしい

ガンダーラ美術の殿堂ペシャワル博物館。1階には周辺の仏教遺跡で発掘された多数のガンダーラ仏が並ぶ。大半は英領インド時代に英国の主導で発掘された

ペシャワルの市場の魚屋。海は遠い。おそらくインダス川でとれた魚だろう
パキスタンはイスラム国家。整然と建設された首都イスラマバードでは現代感覚あふれるモスクが威容を誇る
2世紀ごろに制作されたものとみられるガンダーラ仏。ペシャワルに近いタフティ・バティの寺院跡で1908年に発掘されたことを示す表記が光背にある=ペシャワル博物館