炳霊寺に行くための船着き場がある劉家峡ダムは、中国政府が国家の威信をかけて1967年に完成させた。

 総貯水量57億立方メートルの、発電・洪水防止・かんがいの多目的ダム。ついこの間まで、つまり長江(揚子江)の三峡ダムができるまでは中国随一の巨大さを誇ったという大変なものだ。

 船は20人くらい乗れるモーターボート。陽光に光る湖面に乗り出すと、たちまち大海を行くという気分になった。「孤帆の遠影、碧空(へきくう)に尽き」などの句も思い出さないわけではなかったが、気分はすぐに変更された。

 時速50キロで走るボートは、湖面を滑るのではなく、石の水切り遊びのように跳びはねて行く。体が座席から浮き上がっては落ち、頭が天井に衝突する。元ボクシングチャンピオンの渡嘉敷さんに似た運転手は上機嫌で船内いっぱいにカセットの流行歌を鳴り響かせる。目的地に着いた時は首筋がこわばっていた。

 周囲に華南屈指の景勝地・桂林にたとえられる奇峰がたくさん見られる。「炳霊寺」は唐代、チベット族が侵入してからつけられた名前で「十万仏」を意味する。この地一帯に仏が満ちているというのだ。

 1000年にわたってうがたれた石窟は計183個、石像、塑像が合わせて776体、壁画は900平方メートルという。うち唐代のものが全体の7割近くを占める。

 それらが長さ350メートル、高さ30メートルの絶壁に分布している。札幌の丸井デパート本館くらいのかたまりが四つ五つ、横に並んでいる光景を想像していただきたい。

 最も古い第169窟は広さ20畳敷ほどの広さ。重要なのは、その壁面に「西秦建弘元年」(紀元420年)と墨書銘が記されている点である。  貴重な遺跡を守る人々が住んでいた。炳霊寺石窟文物保管所所長、王亨通(おう・こうつう)さん(38)ら4家族18人だ。

 王さんは地元の出身で、生まれた家はいまダムの湖底に沈んでいる。蘭州の甘粛省博物館や蘭州大学歴史科で学んだ。二代目所長に就任したのは5年前。初代は、その父親が政府の保護機構が整備される前から墓守のようにしてひっそりと守っていたという。父子二代にわたる仕事だった。

  炳霊寺には飲料水はあるが、食糧、衣料、燃料のたぐいはいっさいない。すべて劉家峡まで買い出しに出かける。「船の人に頼んだり、自分たちで出かけたり。不便です」。かすみを食べて生きているのではなく、古代の修行僧でもない。生身の体を持つ人たちだ。

  とくに子供の学校については、教育熱心な中国の人にとって頭が痛い。「8歳の息子は劉家峡のおばあちゃんの家に預けて学校に通わせている。会いに行くのは2週に一回くらいかな」という。そのうち、王さんの口元が急にほころんで、「算数が93点。国語が80何点」と、出来の良い子を持つ親の顔が表に出た。

 昨年、蘭州の西北師範大学を卒業した女性職員の丁万華さん(24)は「考古学、文物の仕事が好き。蘭州みたいな都会はうるさくて嫌いです」と話した。が、たとい転勤・転職を望んでも不況下で失業率が高くなっている現在、おいそれと抜けるわけにいくまい。

 大修復工事は97年9月から始まった。99年までの第一期工事で、崩落などの危険個所を直す。予算は396万元という、70年代の大同・雲崗(うんこう)石窟、洛陽・竜門石窟以来の巨額工事だ。続いて第二期、第三期の計画があるが、この経済情勢がどう響くか不安だ。

五胡十六国時代の東・西魏(ぎ)から北周にかけての6世紀に造られた第172石窟。彩色された三尊像は明代に補修されたあとがあるが、衣の流水文様や顔の明快な表情に北周の様式が読み取れる

王所長(左端)をはじめとする炳霊寺石窟文物保管所の職員と修復工事にたずさわる人たち

炳霊寺の入り口付近は太古、海の底で削られたような峰々がそそり立つ。それぞれ「五僧迎舟」「残陽臥竜(がりゅう)」などそれらしき名前がある
絶壁には大仏のほかにも唐代に造られた中小の摩崖仏が見られる。石窟には保護のための扉が付き、見学者向けの桟道(さんどう)もある