「このまちで一番いい車だ。峠行きは任せてくれ」。中古の日本製乗用車のボディーをたたきながら、クンジェラブ峠往復の旅を請け負ってくれたのはギルギットのホテル経営者スルタン・ムハマドさん(28)だった。

 中国ではあらゆる取材が地方政府外事部門との調整を経て行われる。頼りになるが、融通のきかないこともある。パキスタン取材にはそのような規制はない。あえてまったく予約なしに歩くことにしていた私たちに、彼がたまたま声をかけてきてくれた。

 標高1,600メートル、人口約10万のギルギットは、首都イスラマバードと峠を結ぶ約700キロのカラコルム・ハイウエーの中間にある。古代から英領インド時代に至るまで中国、中央アジアへの出口として栄え、今世紀に入ってからは世界第二の高峰K2(中国名・チョゴリ、8,611メートル)やナンガパルバット(8,125メートル)への登山口としても多くの外国人を迎えてきた。

 郊外に中国人の墓があった。1978年に完工したハイウエーの建設中に殉職した88人の労働者が眠る。ハイウエーとは名ばかりの険しい山岳道路はすべてパキスタン領内を走るにもかかわらず、中国が多大な犠牲を払って建設に協力した。

 1947年に分離・独立したインドとパキスタンは、ヒンズーとイスラムという宗教の違いなどもあり、対立を続けてきた。インドは中国と仲が悪い。敵の敵は味方、の理屈で中国とパキスタンは仲がいい。ハイウエーはそのあかしである。

 ムハマドさんが紹介してくれた地元警察幹部と話しているときだった。インドの核実験に対抗して実施したパキスタンの核実験に話がおよぶと、警察幹部は自信を込めて言った。「広島、長崎の悲劇はもちろん知っている。しかし、なぜ日本はあの戦争中に原爆を開発しなかったのか。原爆を持っていれば米国は広島、長崎を攻撃できなかったはずだ。私たちはインドと敵対しているのだ」。印パ間には緊張緩和の新たな動きも出ているが、力の均衡への信仰はなお根強い。

 ムハマドさんは峠に向かうハイウエーを時速100キロで飛ばす。タイヤはツルツル、道路下は300メートルの絶壁。「私の友人は英国人観光客とともに下の川に落ちて死んだ。この地域の車の大半は日本で廃車になったものさ。ロシア、アフガニスタン経由で入ってくる。でも、この車はちゃんと整備しているから安心だ」などと脅しながら鼻歌交じりでハンドルを握る。

 本道を外れて急坂を上ったところにフンザがあった。人口7万。かつて藩王国として自治権を持ち、長寿の桃源郷として世界に知られた。地元の観光業者から話を聞いてびっくりした。フンザには常時100人近い日本人が滞在しているというのだ。ほとんどが20歳前後の世界放浪旅行者。ある青年は「その気になればひと月1万円で過ごせます。人情はいいし、カラコルムの景色はすばらしいし、あと3カ月暮らすつもりです」と語った。

 パキスタン奥地の観光の主役はいまや断然日本人である。中国に抜ける中高齢者中心のパック旅行参加者と長期滞在型の若者に二分されるそうだ。

 フンザからさらに上り、氷河の末端をいくつも渡ってスストに着いた。クンジェラブ峠まで100キロほどあるが、ここが最終集落である。中国側のタシクルガンと同じように、出入国手続きはここで行われる。

 峠に向かう前夜、宿でフマユーン・イクバルさん(28)と親しくなった。中国製衣料品を買い付け、峠を越えて輸入するパキスタン人だ。2年前に中国のカシュガルで漢族の女性と国際結婚した。カシュガル市政府発行の結婚証明書に生後5カ月の娘さんの写真をはさんでいた。「パキスタン政府は価格の安い中国製品の輸入に神経をとがらせているが、市場の需要は根強い。いい商売ですよ」と笑った。

 パキスタンではあまり「シルクロード」とは言わず、「シルクルート」と呼ぶことが多い。古代からインド亜大陸と中国を結んできたシルクルートの峠道は、現代も脈々と息づき、新たな営みを生み、育て続けている。

長期滞在の日本青年が目立つフンザ。日本語表記の屋台もあり、すぐわきを「東京中日スポーツ新聞」と書かれた輸入中古車が走っていった

フンザの里からはフンザ川をはさんだ対岸の右奥にカラコルムの秀峰ラカポシ(7,788メートル)が望める

中国から衣料品を輸入しているというイクバルさん。中国人の夫人との結婚証明書は商売にも威力を発揮するのだろう
ギルギットでは毎日のように豪快なポロの試合が行われていた。数千人の見物客すべてが男性だった。ペルシャ起源とされ、中国にも7世紀の唐代初頭に伝わり、玄宗皇帝も若き日に楽しんだという。英領インド時代に英国軍人が親しみ、西欧にひろがった